大判例

20世紀の現憲法下の裁判例を掲載しています。

東京地方裁判所 平成7年(ワ)15636号 判決

原告

A

外九名

右一〇名訴訟代理人弁護士

尾山宏

小野寺利孝

大森典子

渡辺春己

森田太三

菅沼友子

渡邉彰悟

寺沢勝子

伊藤みさ子

小笠原彩子

富岡恵美子

野上佳世子

則武透

三木恵美子

三南典男

加藤文也

齊藤豊

高橋融

中野比登志

坂口禎彦

山下潔

馬奈木昭雄

廣谷陸男

右代理人尾山宏訴訟復代理人弁護士

高和直司

徳岡宏一朗

兵頭進

及川信夫

環直彌

富森啓児

鳥海準

泉澤章

川上詩朗

笹本潤

高橋早苗

山森良一

山田勝彦

穂積剛

大江京子

神谷咸吉郎

被告

右代表者法務大臣

陣内孝雄

右指定代理人

齊木敏文

外一二名

主文

一  原告らの本件各請求をいずれも棄却する。

二  訴訟費用は原告らの負担とする。

事実及び理由

第一  請求

一  被告は、

1  原告Aに対し、金二〇〇〇万円、

2  原告B、原告C、原告D、原告E、原告F及びGに対し、各金三三三万円、

3  原告Hに対し、金二〇〇〇万円、

4  原告IことI'に対し、金二〇〇〇万円、

5  原告Jに対し、金二〇〇〇万円

並びに右各金員に対する平成七年九月二八日(本訴状送達の日の翌日)から支払済みまで年五分の割合による金員をそれぞれ支払え。

二  訴訟費用は、被告の負担とする。

三  仮執行宣言。

第二  事案の概要

一  本件は、昭和一二年(一九三七年。同年六月四日第一次近衛文麿内閣が成立したが、同年七月七日北京城西南約六キロメートルにある廬溝橋(マルコポーロ橋)の付近で些細なことが契機となって戦闘が発生した。同月九日には一旦停戦協定が成立したのであるが、我が国は華北への出兵を決めた。日本軍増援部隊の到着と共に華北の緊張が高まり、同月二五日夜以降戦闘が始まり、同月二八日早朝から日本軍の総攻撃が開始され、同月二九日までに、北京、天津等が日本軍によって占領された。右北京等の占領以降、中国国民の抗日感情が激化する一途となり、同年八月一三日第二次上海事変が起きた。九月二三日いわゆる国共合作が成立し、中国は一〇月三〇日重慶に遷都した。日本軍の上海攻略は同年一一月五日の杭州湾上陸によりようやく一段落し、同月中旬に上海を制圧した。しかし、現地日本軍において同月二〇日南京追撃が指令され、南京攻略が強行されるに至った(政府の正式決定は同年一二月一日)。同月一三日に日本軍は南京を占領した。上海から南京までは約三〇〇キロメートルあり、南京の特別市の全面積は東京都、神奈川県及び埼玉県を併せた広さで、この広い空間で、同年一一月末から事実上開始された日本軍の進撃から南京陥落後約六週間(すなわち、昭和一三年一月)までの間に(なお、更に数週間後の南京の安定化までの期間をとる見方もある。)、少なくとも数万人の中国国民が殺害されたであろうという(中国側の主張では三〇万人ないし四〇万人の殺害という。)いわゆる「南京虐殺」が起きた。)から、昭和二〇年(一九四五年)八月一四日我が国がポツダム宣言を受諾して連合国に降伏するまでの間(以下、この間を「本件当時」という。)の我が国の中国大陸(当時の中華民国及び満州国)における侵略戦争又は侵略行為に際して、中国国民である原告らないしその配偶者その他の肉親らが、日本軍ないしその軍人から、強姦未遂、拷問、捕虜虐待、人体実験、無差別爆撃などという非人道的残虐行為(以下「本件加害行為」という。)を受け、甚大な苦痛等を被ったと主張する原告らが、

1  一九〇七年(明治四〇年)の第二回国際平和会議で採択された「陸戦ノ法規慣例ニ関スル条約(以下「ヘーグ陸戦条約」という。)」三条は、個人が交戦当事国に対して直接損害賠償請求権を有することを規定したものであり、本件当時それが国際慣習法化していたので、この国際慣習法に基づき、また、本件加害行為がその当時の国際人道法ないし国際人権法に反する非人道的残虐行為であることに基づき、原告らは右による損害につき直接我が国に対して賠償を求める権利を有する、

2  本件加害行為は、本件当時の中華民国法(中華民国一八年(一九二九年)に公布、翌年から施行されたとされる中華民国民法の第二編「債権」中の一八四条)に規定されている不法行為に該当し、これが法例一一条を介して本件加害行為に適用されることに基づき、原告らは我が国に対して直接損害賠償を求める権利を有する(右1の請求権と併存している)

旨主張して(なお、右不法行為に関し、原告Aに関する予備的主張として、同原告に対する強姦(未遂)行為につき日本軍がこれを防止せずに放置したことが右中華民国民法上の不法行為に当たる旨主張し、また、原告らに対する本件加害行為について、中華民国民法一八八条に基づく使用者責任を負う旨をも主張している。)、右のいずれかに基づく損害賠償(慰謝料)として、右第一記載のとおりの金員(直接的な被害者一人につき各二〇〇〇万円)の支払を求めている事案である。

二  原告らの主張は、別紙第二の「原告らの主張」記載のとおりであるが、各原告らの被害内容についての主張の概略は次のとおりである。

1  原告Aについて

(一) 原告Aは、一九一九年(大正八年)二月四日当時の中国の首都である南京で生まれ、同所で生活していたが、一九三七年(昭和一二年)上海市の通信師(公務員)であったKと結婚し、同所に新居を構えた。しかし、右上海市川砂県付近には、既に日本軍の空母があり、同年九月、平穏な新婚生活を維持することが困難となり、上海から南京に戻った。同年一一月にはKも南京に来て再会することができたが、その三日後両者は再び離れ離れとなった。

(二) 同原告は、同年一二月の南京市への日本軍侵略による大混乱の中、五台山にある外国人の小学校に他の中国人男女と共に避難した。日本軍は、同月一三日に南京を占領し、捕虜、一般市民の虐殺を開始した。右避難場所は、当初は発見されなかったが、同月一八日に発見された。

(三) 翌一九日の午前中、日本兵が数名来て、強姦するため若い女性を連れ出し始めた。同原告は、貞操観念が強く、かつ当時夫との間の子を身篭もっていたので、強姦されるぐらいなら死のうと決意し、壁に自分の頭部を打ちつけ、失神した。そこで、日本兵らは同女の連行を一旦は断念した。

(四) ところが、同日夕方、再び三人の日本兵が侵入してきて、二人の兵が前同様の方法で二人の中国人女性を連れ去り、残りの一人の日本兵は、同原告を連れ出すことが不可能ならば、即時同所で強姦しようとして、同室の者を外に追い出し、同原告の服に手をかけた。

同原告は、必死で強姦を拒絶する決意で、右手で日本兵の腰の剣をとり、壁を背にして立ち、防禦の姿勢をとった。兵は、両手で同原告の右手をつかんで抵抗を封じようとしたが、同原告は、左手で兵の左手の襟をつかんで振り回し、またその両手を噛んだりして激しく抵抗した。兵は大声を出して加勢を求め、これを聞いた二人の日本兵がかけつけてきて、銃剣をとり出して同原告を三七回も刺した。刺された箇所は、足部、額面部、首部、腹部等の二九箇所に及んだ。同原告は、最後に腹部を刺されたとき失神し、日本兵らは同原告が死亡したものと考えて同所を立ち去った。

(五) 同原告の父は同原告が死亡したと考え、他の避難民と共に穴を掘り、同所に同原告を運んだ。その折、同原告は蘇生したが、身篭もっていた胎児は、翌二〇日妊娠七か月の状態で流産し死亡するに至った。

その後、同原告は、健康が回復した後も、左目の下の傷の肉が変形したせいか、物がはっきり見えず、左頬は骨が一部失われ、右頬は骨がずれて、現在においても洗顔時痛みを生じ、口腔内も刺創により歯ぐきが損なわれ、二二歳のころから義歯を使用するようになり、また、何よりも辛かったこととして額面に多数の傷痕が残るという後遺症を被った。

(六) 夫Kは、一九三八年に上海に戻り、同原告と再会し、その後両者は九人の子をもうけたが、同原告は前記後遺障害のため就職ができなかった。同原告は、本人の差恥心もさることながら、他人も同原告の外見の異様さを気味悪がったため、外出すらできない状態であり、到底就職などすることができなかったのである。

2  原告IことI'の被害

(一) 原告I'(以下「原告I'」ということがある。)は、旧名Iで、一九二二年(大正一一年)一月黒竜江省望奎県で生まれ、その父はLである。

同原告は六人兄弟の長女で、その家族は、一九二六年(昭和元年)ころ、伯父のM、叔父のNとともにハルビンに移った。

一九三一年(昭和六年)の九・一八事変(柳条湖事変)後、日本軍はハルビンに侵入し占拠した。当時、原告I'は九歳で、ハルビン市道里区〈番地略〉に住んでいた。Nは、一九三四年当時ハルビンの鉄道会社で警備の仕事をしていたが、一九三九年(昭和一四年)の始め頃牡丹江へ移り、同年三月ころ、同原告の両親に同原告の結婚相手としてOを紹介した。同原告はOとの結婚に同意し、Nに連れられて牡丹江に行き、満一七歳で、Oと結婚した。Oは一九一四年(大正三年)生まれで、夫婦仲は睦じく、家計はOの給料で支えていた。

右結婚後、Pとその妻のQが牡丹江に引っ越して来た。Pは牡丹江に来ると名前をP'に変えていた。Nはよく同原告宅に来、時々Rも一緒に来ていた。N、O、P'、R、Sは、同原告に対し、自分たちが反日運動のメンバーであると教えた。

(二) 一九四一年(昭和一六年)七月一七日、Oは朝仕事に出かけたが、午後五時過ぎになっても帰ってこなかった。

同日午後七時頃、五人の日本憲兵が、同原告方にやって来た。憲兵はそこがOの家であると確認すると、同原告を壁に押しつけ、手足で同人を蹴った上、ジープで牡丹江憲兵隊本部まで連行した。取調べにおいて、二人の憲兵と通訳がOの仕事を尋ね、同原告が「昼間仕事に出て、帰ってからはどこへも行かない。」などと答えると、憲兵が同原告を殴ったり、蹴ったりし、続いて、N'のことについて尋ねた。原告I'は、N'とはNの偽名だと知っていたが、Nを守ろうと思い、何も言わなかった。原告I'は服を剥ぎ取られ、憲兵らは革のベルトで裸の同原告を鞭打ちしながら尋問した。血まみれになり、ほとんど気を失いかけた同原告を、憲兵らはその部屋から引きずり出し、建物に隣接する狭い小屋に放り込んだ。その小屋にはQとその二人の子供がおり、深夜に、同原告は、Qから、P'も捕らえられたことなどを知った。

(三) 翌日の午前八時ころ、同原告が尋問室に連れて行かれると、そこには、手錠と足かせをはめられ、服はボロボロで顔に血の跡のあるOがいた。憲兵は、Oの前で同原告I'を何回も殴り蹴り、鞭で打った。苦痛のあまり気を失ってしまった同原告が気がつくと、Oは、涙を浮かべながら「彼女を殴るな。彼女は主婦で何も知らないんだ。」などと言っていた。憲兵達は、鞭を振り回してOを激しく打ち始め、同人が気を失うと冷たい水を浴びせかけ、意識をさまさせ、更に暴行を加えた。同原告はOの所に駆け寄ろうとしたが、二人の憲兵が原告I'を小屋に連れ戻した。右拷問は約一時間ぐらい続いた。

(四) 四日目の夜、憲兵らはまた同原告を引っ張り出した。憲兵らは、同原告にN'のことを聞いたが、原告I'がそのような人は知らないと言うと、怒り、一人がこん棒で同原告の下腹を打とうとした。同原告は手でそのこん棒を避けようとしたため、左手首の骨が折れた。憲兵らはこれに構わず、また原告I'を激しく殴った。そこで原告I'は何回も気を失った。

その後、二人の憲兵が同原告を別の部屋に引きずって行き、そこには、十字の木に縛られ、首がだらりと垂れ下がり、皮膚が破れ、肉が裂け、血だらけになったOがいた。同原告I'はOにすがり、同人の名を叫んだ。憲兵はOが気付くと、また激しくOを殴り、同原告を階下に引きずっていった。これが、同原告がOを見た最後であった。

(五) 五日目、同原告は手と手首が腫れ上がり、激痛に苦しんだ。七日目の朝、憲兵が同原告を釈放した。

また、同原告の父、Lも憲兵隊に七一日間収監され、拷問を受け、その後釈放された。同人は、釈放後寝たきりの状態になり、保釈されてから一年内に死亡した。

(六) Oは、牡丹江の憲兵本部からハルビンの憲兵隊に移された後、「特移扱ニ関スル件通牒」に従って憲兵により、七三一部隊に送られた(甲三九)。同原告は、自らが釈放された後ずっとOの消息を探し、同人が釈放されて戻るのを待っていた。一九五〇年(昭和二五年)に、N及びOが日本軍に殺害されたとの手紙をもらい、Oが殺害されたことを知ったが、その詳細は分からなかった。一九八六年(昭和五一年)、原告I'は、侵華日軍「七三一部隊」罪証陳列館元館長の韓暁から、Oが七三一部隊で殺害されたことを知らされた。

3  Tの遺族である原告B・C・D・E・F・Gの被害及びUことU'の遺族である原告Hの被害

(一) 原告B・C・D・E・F・GはTの子であり、原告HはUの妹である。T及びUは日本軍に逮捕され、七三一部隊へ連行された。

(二) すなわち、一九四三年(昭和一八年)六月、日本軍の関東軍・満州八六部隊の無電諜報班は、大連市の黒石礁の中国人部落の写真館からソ連向けの電波があることを探知し、同年一〇月一日、同所においてVを逮捕した。憲兵隊は、取調べによって、VがT、Uと交流があった旨の供述を得た。同月、大連憲兵隊は、天津市のT、U両名を捜索し、ついに右両名の居場所である紡績工場を突きとめ、同月末、証人三尾豊の属する大連憲兵隊はTを逮捕した。大連憲兵隊は、逮捕したTからUの住居を聞き出し、Uを逮捕した。

T及びUは、逮捕されてから大連憲兵隊に連行され、そこで三尾豊らによる取調べを受けた。取調べの目的は主にTと中国共産党との関係を追及することにあったが、Tが供述しないため、鼻にかぶせたハンカチに水をたらす水拷問や足の裏をローソクの火でじりじり焼く拷問にまで及んだ。三尾豊らの取調べは約三か月間続いた。

(三) 一九四四年(昭和一九年)二月末、憲兵隊司令部は、右大連事件をVを中心とする諜報事件として扱い、T及びUを含む四名を七三一部隊への「特移扱」として送致する命令を発した。「特移扱」とは、ハルビンの日本軍七三一部隊への送致のことを意味し、そこに送られた者は二度と生きて帰れないのであった。

同年三月一日、三尾豊らは、「特移扱」による送致命令を受けて、T及びUを含む四名を、大連からハルビンまで列車(特急アジア)で極秘に護送した。三尾豊らは、列車がハルビン駅に到着するとそのホームに待ち構えていた憲兵にT及びUら四人の身柄を引き渡した。右四名は、護送車に蹴り込まれるように収容された。その後T及びUは、二度と家族の下へ帰還することがなかった。

(四) T一家は、TとUが逮捕されたことを叔父のWから聞いた。一家の経済的な支柱を知った家族は悲痛に打ちのめされ、Tが生きて戻ってくることを待ち望み、原告ら六名の母と叔父のWは財産をつぶしてもとの思いでTらの手がかりを探したが、Tの消息は細菌工場に送られたということしか分からなかった。

一九五九年(昭和三四年)になって、長春市の公安局の幹部である呉敬業から、TとUが七三一部隊の細菌工場に送られ、そこで人体実験が行われ、殺害されたことを知った。

Tが逮捕されてからは、Tが経営していた店はすべて傀儡満州国政府に接収され、T一家の経済的な拠り所が断たれた。T一家はTを救い出すために農地をも売らざるを得ず、僅かに残った農地のみを頼りに生活した。

(五) 原告Dは、日中国交回復時に、中国が日本に対する被害補償請求を放棄するという発表を聞いた際煮え切らない気持ちを持ったが、日中間の国交はごく限られていたので何もするすべがなく、一九九五年(平成七年)の銭其外相の発表に啓発され、はじめて本裁判所に提訴できるようになった。

(六) Uが逮捕された当時のU一家は、父のW、Uの妻のX、妹の原告H、弟のY、子のZ、aからなる六人家族であった。右逮捕後、Uの家族は彼の消息を非常に心配した。父のWは、Uが釈放され生きて帰ってくるのを期待して家財を売りに出した。Uは天津の紡績工場の実質的な経営者だったので、逮捕によって同工場の機能が麻痺状態となり、経済的支柱を失った家族の経済状況は悪化した。Wは、日夜息子を想い、しばらくして病死した。Uの家族は、父Wの死後苦しい生活を余儀なくされた。

Uの一家は、一九五九年(昭和三四年)に、Uが七三一部隊によって殺害されたことを、長春市公安局の呉敬業から知らされた。

4  原告J(無差別爆撃による被害)

(一) 原告Jは一九三九年二月四日浙江省金華市に生まれた。臨平鎮中心小学校、杭州市第九中学校(当時杭州市樹範中学校)、上海復旦大学数学学部を卒業し、大学助手、講師を経て現在、浙江省××院で助教授をしている。

同原告は、一九四三年(昭和一八年)一一月四日、日本軍の福建省永安市に対する飛行機による大規模な無差別爆撃により、その母と共にそれぞれ右腕を失った。

(二) 一九三七年(昭和一二年)七月七日の廬溝橋事変後、日本軍は上海に侵攻した。一九四二年(昭和一七年)六月、日本軍は寃袴線を通すために、浙江省瘟州市に侵入し、同原告は母に従って瘟州市から二〇キロ余り離れた山奥の石屏郷に避難した。同月下旬日本軍が瘟州から撤退したので、市内に戻ったが、家は既に爆撃で壊され住めなくなっていた。日本軍が再び爆撃するのを恐れて、同原告とその母は、避難する人々について徒歩で、二〇〇キロ余り離れた福建省の浦城へ百日余りかかって苦難な旅をした。

(三) 一九四三年(昭和一八年)当時の永安市は防備措置を取っていない都市で、軍隊も軍事施設もなかった。しかし、日本軍の飛行機は住民の密集地域に対し一九三八年六月三日から一九四三年一一月四日まで延べ一一回、延べ一七〇機の爆撃機を出撃させて無差別爆撃を行い、同原告を含む一般住民を死傷させ、甚大な財産の損害を発生させた。

右爆撃のうち、最も被害が大きかったのが一九四三年一一月四日のいわゆる「永安大災難」であった(甲一三七)。当日、一六機の日本軍飛行機から延べ二〇〇発余りの爆弾が落とされた。大部分は重さ五〇〇ポンド以上のもので、その他比較的小さな焼夷弾もあった。飛行機は台湾海峡を飛行してやって来たと推定されている。一列に並んで市全体や東西の郊外地域へ大きさの違った焼夷弾を集中的に投下した。飛行機はまず焼夷弾を落とし大火災を起こさせ、市民が次々に外に出て来て消火したり財物を持ち出している時に、再び急降下し爆弾を投下したり機関銃で掃射した。

(四) 右一一月四日の午後一時頃、同原告は母と家で昼食を取っていたが、中庭辺りにも一発の爆弾が落ちて、右両名は同時に右腕を失った。

同原告は幼いころに右腕を失い、バランスが取れずによく転んだ。発育も悪く、腕がなくなったため血液の循環が阻まれ、骨格の生長点が欠け、右肩と右肺の発育は不全で、身体は痩せ虚弱で病気がちだった。気温が低くなると切断した腕に鈍痛を感じ、夜眠れなかった。障害を持つため、差別されたり嘲ったりされ、同世代の子供たちに苛められた。髪の毛の上に砂をまかれたり、何の理由もなく蹴られたり、びんたを受けた。街を歩くと「腕のない者が来た」と叫ばれて、見世物になったこともある。進学についても、身障者であることを理由に一旦は試験を受けることを拒否され、教育委員会に掛け合い、新聞に投稿して世論を喚起し、ようやく入学試験を受けることができるようになって、高校に入学した。大学進学時も同様な困難に遭い、特別許可を得て入学した。就職に際しても、片腕であることを理由に困難に遭遇した。就職後の転勤に際しても、原告の希望を通すため十数年の年月を要した。私生活においても、片腕を理由とする社会の偏見に苦しみ、恋愛や結婚において語るに語れぬ大きな苦しみを味わった。

(五) 一方、同原告の母は、以前湖州福音医院の夜勤総婦長及び金華福音医院の婦長だったので、子育てが終わったら病院に戻って仕事を再開するつもりでいたが、前記によって右腕を失って以来、仕事を失い、家計もすぐに苦しくなった。母は、日常の料理、家事、子育てなどは片手でしなければならず、一九四四年春、被爆のために身体が弱った。二度気を失って入院し、精神的にも追いつめられ、幾度となく自殺を考えたが、幼い同原告らの面倒を見る人がいなくなることや、同原告らが懇願したことや、親友の慰めや諭しを受けたことなどから生き抜いた。

(六) 同原告は、一九九一年(平成三年)五月「法制日報」に載せられた童増論文「国際法における戦争賠償と被害賠償」を読み、「戦争賠償」と「被害賠償」は区別でき、「民間被害賠償」を日本政府に請求できることを確信し、一九九二年(平成四年)一〇月二〇日以来幾度となく日本大使館に要求書を送った(甲一七七の1、2)が、何の返答もなかった。ようやく、童増の紹介で「中国人戦争被害者賠償請求事件弁護団」と接触し本件訴訟に至った。

三  被告の主張は、別紙第三の「被告の主張」記載のとおりであり、要するに、仮に原告ら主張のとおりの事実関係があったとしても、その損害につき、原告らが個人として我が国に対して直接損害賠償を求める権利はないというのである。

四  本件の主要な争点

1  本件加害行為の存否並びにその歴史的背景と被害の性質。

2  外国による戦争行為等によって発生した個人の損害について、当該個人が当該外国に対して直接損害賠償を求める権利を有することが、国際法上一般的に認められているか。

3  本件当時、本件加害行為のような外国軍隊等の行為につき、被害者個人が直接外国に対して損害賠償を求める権利を有することが国際慣習法として成立していたか。

一九〇七年の第二回国際平和会議で採択された「陸戦ノ法規慣例ニ関スル条約」(以下「ヘーグ陸戦条約」という。)三条は、これに附属する「陸戦ノ法規慣例ニ関スル規則」(以下「ヘーグ陸戦規則」という。)に違反する行為によって損害を被った個人が、右違反行為をした者の所属する交戦当事国に対して直接損害賠償を請求し得る権利を規定したものか。

右が肯定されるとき、ヘーグ陸戦条約が直接適用されない戦争についても、ヘーグ陸戦規則に違反する行為によって損害を被った個人は、右違反行為をした者の所属する交戦当事国に対して直接損害賠償を求める権利を有するということが、本件当時既に国際慣習法化していたと認められるか。

4  本件加害行為が「国際人道法」「国際人権法」に反することからして、個人が、そのような非人道的行為をした交戦当事国である我が国に対して直接損害賠償を求め得る権利を有するといえるか。そのような請求権を有することが、本件当時既に国際慣習法化していたと認められるか。

5  本件加害行為につき、本件当時の中華民国民法による不法行為に基づく損害賠償請求権を、法例一一条一項を介して我が国に対して行使することができるか。本件に即してより具体的に換言すれば、法例一一条一項にいう「不法行為」中に、本件当時中国大陸において日本軍がした戦争行為及びこれに付随する行為によって中国国民が被害を受けたとき、それが私法というべき中華民国民法上の不法行為に当たり、それによって戦争被害を受けた個人が我が国に対して直接損害賠償を求める権利を発生させるということをも、想定し含意していたといえるか。

6  本件損害賠償請求につき除斥期間が満了しているか。

第二  当裁判所の判断

一  本件に関する基本的な事実関係について

本裁判は、本件加害行為について原告らが個人として直接我が国に対して損害賠償を求めることができるかどうかという国際法上の法律問題が最大の争点であって、右法律問題を一般的に論じるに際して、本件加害行為の背景又は直接の原因となっている歴史的事実の認定評価自体が直接その結論を左右するものではないが、原告らにおいて、本件加害行為を我が国の本件当時における中国及び中国国民に対する侵略行為ないし戦争行為と結び付け、特に、無差別爆撃(昭和一八年の原告J及びその母の被爆関係)のほか、いわゆる「南京虐殺」(昭和一二年一二月の原告Aの強姦抵抗阻止に対する報復的殺人未遂ないし傷害関係)、「七三一部隊」(その余の原告らの関係で、直接の加害行為としては、昭和一六年の場合と、昭和一八年から一九年にかけての場合とがある。)と関連する日本軍による非人道的残虐行為についての戦争責任を問うものであって、右南京虐殺、七三一部隊の実態等については種々議論があり、その存在自体を否定し、ないし、これを殊更に過少評価しようとする見解もあること、そのような戦争犯罪等につき個人が外国に対して直接損害賠償を求める権利を有するといえるか、どのように解決するのが相当であるのかという国際法上の極めて重要な問題が問われていること、これを検討するに際しては、少なくとも一九世紀半ばから一九四五年までの間の中国及び我が国が置かれていた国際的環境や、これと関連する世界、とりわけアジアにおける戦争や紛争や、その結果や、その後現在に至るまでの世界の戦争、地域紛争等の実態や、世界の平和がどのように樹立されるべきであるかなどにつき考慮しないわけにはいかないと考えられ、少なくとも当裁判所としてはそのように考えざるを得ないことなどに鑑み、本件に関する基本的な事実関係と関連し必要と認められる範囲と当裁判所の限られた知見及び能力の範囲内で、公知の事実、証拠(甲一ないし四、五の1、2、六の1、2、七、八の1ないし3、九ないし一七、一八の1、2、一九、二〇の1、2、二一ないし三〇、三一の1、2、三二ないし八二、八三の1ないし3、八四ないし九〇、九一の1、2、九二ないし一二一、一二二の1、2、一二三ないし一三一、一三二の1、2、一三三ないし一七六、一七七の1、2、一七八の1、2、一七九ないし一八三、一八四の1、2、一八五ないし一八八、一八九の1、2、一九〇ないし二〇五、二〇六の1、2、二〇七ないし二三五、乙一ないし一九、証人三尾豊、証人阿部浩己、証人奥田安弘、証人内池慶四郎、証人浅井基文、原告A本人、原告D本人、原告I本人、原告J本人)、公刊されている一般的な歴史図書(最近のものとしては、例えば東洋経済新報社の正村公宏「世界史の中の日本近代史」及び中村隆英「昭和史Ⅰ(一九二六―一九四五)」、中央公論新社の「世界の歴史」三〇巻など。なお、第二次世界大戦後の我が国の外交と賠償関係などについて、外務省戦後外交史研究会編「日本外交三〇年―戦後の軌跡と展望(一九五二―一九八二)」財団法人世界の動き社昭和五七年一一月発行なども参考とした。)、一般的日刊新聞、テレビ放送(例えば、比較的最近のNHK「映像の世紀」など)及び弁論の全趣旨に基づき、当裁判所の認識するところを示すこととする。(原告らに直接関係する部分は証拠によって認めるものである。いわゆる「歴史」又は「歴史的事実」については、それが果たして「事実」なのか、「物語」ないし「民族としての記憶」なのか、あるいは、学校で教育されるべき「歴史」としてどのような内容や記述の仕方が望ましいかなどについては議論があるところであり、そのような歴史ないし歴史教育の「在り方」に関してはもとより当裁判所が判断するものではないので言及せず、ここでは広くほぼ「事実」と認められている事象につき極めて簡単に概観するのみである。ちなみに、本件で特に問題とされている「南京虐殺」及び「七三一部隊」については、本件と同様に国を被告とするいわゆる「家永教科書検定第三次訴訟」の控訴審判決(判例時報一四七三号(平成六年一月一日号)三頁)、上告審判決(同一六二三号(平成一〇年二月一一日号)四九頁)において、教科書に取り上げて記述するのが果たして相当かどうか、どのような形でどのような記述をすべきであるかという観点を含めて、既に判断されており、少なくとも右訴訟においては、被告国においても、その詳細を除いて、それに相当する事実関係のあったこと自体は争っていないところと認められる。そして、その余の世界史上の大項目的な「歴史的事実」については、何を選択すべきかについては迷うところであるが、要するに、原告らが「戦争被害」につき個人として我が国に対して直接損害賠償を求め得る権利を有するというべきかどうかを判断するに際して、原告らが援用する「陸戦ノ法規慣例ニ関スル条約」が採択された一九〇七年開催の第二回国際平和会議の前後、特に一九世紀後半から一九四五年の我が国が無条件で降伏するまでの間の、我が国、中国、アジア、欧米に存した基本的な歴史的事実関係や、その後現在に至るまで繰り返されている全世界における無数の戦争の存在について認識しておく必要があるとの観点から、多くの洩れがあることを恐れつつ、一般的な歴史書物によって最小限度で言及しようとしたものである。)

1  まず、原告らないしその夫、親、兄弟らが、昭和一二年(一九三七年)から昭和二〇年ころまでの間に、日本軍ないし日本軍所属の軍人から原告らの主張に係る非人道的な加害行為(本件加害行為)を受けたことが認められる。その背景となる歴史関係は後記のとおりであるが、本件加害行為を直接経験した原告ら本人の各供述、証人三尾豊の証言は、極めて真摯かつ平明率直に真実を述べたものと認められ、現時点においては被告側が具体的に反証し難い事柄であることに乗じて事実関係を歪曲しているものであると疑わせるところは全く見当たらない。本件加害行為がいずれも非人道的なものであり、これによって原告ら本人、その夫、親、兄弟らが悲惨な被害を受けたことは、前掲各証拠及び弁論の全趣旨からして明らかというべきである(原告らの主張・供述に係る細部が逐一正確なものであるかについてまでは、当裁判所には判定し難い。しかし、仮に一部事実関係が正確でなかったとしても、概ね原告らの主張に係るような非人道的残虐行為がされたことは間違いないところと判断するものである。また、昭和一八年一一月当時の永安市がどのような都市で、日本軍が何故空爆したのかについても必ずしも定かでない。しかし、結局本件の結論を左右しないので措くこととする。)。

本件当時我が国が中国においてした各種軍事行動は、以下で述べる昭和六年(一九三一年)の満州事変、昭和七年の第一次上海事変、同年の満州国の独立宣言、昭和八年の国際連盟脱退、昭和一一年(一九三六年)の二・二六事件等々を経て、我が国の軍部がその支配体制を確立し、昭和一二年以降、しばしば交替する内閣の閣内不一致や、時に下克上的な軍部等に引き回されるまま、近代における欧米列強を模倣し、ないし欧米列強に対抗しつつ中国大陸における我が国の権益を確保拡大しようとして、中国内部の政治的軍事的極めて複雑な混乱に乗じて、その当時においてすら見るべき大義名分なく、かつ十分な将来的展望もないまま、独断的かつ場当たり的に展開拡大推進されたもので、中国及び中国国民に対する弁解の余地のない帝国主義的、植民地主義的意図に基づく侵略行為にほかならず、この「日中戦争」において、中国国民が中国国内における右混乱にもかかわらず大局的には一致して抗日戦線を敷き、戦争状態が膠着化し、我が国の占領侵略行為及びこれに派生する各種の非人道的な行為が長期間にわたって続くことになり、これによって多数の中国国民に甚大な戦争被害を及ぼしたことは、疑う余地がない歴史的事実というべきであり、この点について、我が国が真摯に中国国民に対して謝罪すべきであること、国家間ないし民族間における現在及び将来にわたる友好関係と平和を維持発展させるにつき、国民感情ないし民族感情の宥和が基本となることは明らかというべきであって、我が国と中国との場合においても、右日中戦争等の被害者というべき中国ないし中国国民のみならず、加害者というべき我が国ないし日本国民にとっても極めて不幸な歴史が存することからして、日中間の現在及び将来にわたる友好関係と平和を維持発展させるに際して、相互の国民感情ないし民族感情の宥和を図るべく、我が国が更に最大限の配慮をすべきことはいうまでもないところである。

2  本件事案に鑑み、前記趣旨によって、右のような極めて不幸な歴史が生じた両国をめぐる国際的背景の概略について見るに、我が国及び中国のそれぞれの歴史並びに一九世紀、二〇世紀における欧米、ロシア、アジアの各歴史は、それぞれ複雑な要素を含むものであり、また、我が国と中国との交流については、長く見れば一〇〇〇年以上にわたる交流を見るべきであり、かつ、我が国及び中国の歴史の何処を重視するのかも単純ではなく、既に膨大な文献等があり、その見方が必ずしも一致しているわけでもなく、もとより当裁判所がそれを研究し尽くしたということもなく、ひいては、当裁判所がそれにつき言及することが本件の結論を直接左右するわけでもないというべきであろうが、我が国が中国大陸を侵略するに至った背景事情として、一九世紀以降の欧米及びロシアのアジアへの植民地主義的進出や、我が国、中国、朝鮮を含むアジアの諸国ないし諸地域にそれぞれ固有の諸般の事情があったこと、一九四五年の我が国のポツダム宣言の受諾によって世界の平和が到来確立したというわけではなく、その後もいわゆる冷戦や、無数の「熱戦」が世界各地で繰り返されていること、「戦争被害」に関する賠償問題についての「国際法」上の取扱いという法的問題を一般的に考える上で、右のような近代及び現代における「戦争」や「侵略戦争」や「侵略行為」や「戦争被害」につき、多少なりとも見ておく必要があるとの観点から、既にほとんどの文献等においてその存在が異論がないものとして認められている世界史的事実のうち、右に関係があると思われる極めて基本的な事項につき見ておくこととすると、以下のとおりである(ただし、一九六〇年ころ以降については本件に極めて深い関係を有すると考えられる部分に限ることとする。)。

まず、一三六八年に中国で明朝が成立し、一三九二年に朝鮮で李朝が成立し、一四九八年にバスコ・ダ・ガマがインドに到達し、一五二二年にマゼランが世界周航に成功し、一五四三年にポルトガル人が我が国種子島に上陸し(当時我が国は戦国時代であった。)、一五七一年にレパント沖の海戦でスペインがオスマン帝国を破り、一五七九年にイェルマークがウラル山脈を越えて一五八二年にシベリアを征服し、一五九二年に豊臣秀吉が朝鮮に出兵し、一六〇〇年にイギリスが東インド会社を設立し、一六三五年以降数年間で江戸幕府の鎖国体制が確立し、一六四一年オランダがポルトガルからマラッカを奪取した。

一六四四年に清の順治帝が北京で即位し(清朝は、満州族が漢族の明朝を征服して建てた国家であり、乾隆帝(高宗。在位一七三五年から一七九五年まで)の時代に、外モンゴル、新彊、東トルキスタン、チベットなどを「藩部」として間接統治する当時世界最大の大帝国を築き、外国に対しては朝貢外交を基本とする「中華」帝国を築いていたものである。同時代における欧州各国の世界各地における植民地政策の遂行と同様に、それが「正義」かどうか、それ自体他民族に対する侵略行為でないのかどうかについては、いまだ「国際法」に基づきその「法的責任」を問われるということはされていない。もとより、例えば一九世紀以前にされた右のような領土取得等に関わる問題について、どのような「国際法」が確立していたといえるのかについては、不明というほかない。)、一六八三年に台湾が清の領土となり、一六八九年にロシア・清間にネルチンスク条約が締結され、一七一五年にイギリス東インド会社が広東に事務所を設け、一七七五年からアメリカ独立戦争が始まり、一七八四年にイギリスがインド法を制定し、一七九六年に清がアヘン輸入を禁止し、一八〇二年にヴェトナムに阮朝が成立し(一九四五年まで)、一八一九年にイギリスがシンガポールを領有し、一八二三年にアメリカがモンロー宣言をした。

一八三九年からアヘン戦争が始まり、一八四二年に南京条約が締結され、清はイギリスに賠償金を支払い、香港を割譲することとなり、一八四四年清はアメリカと望廈条約を、フランスと黄埔条約を締結した(中国の「敗戦条約」は、後記の第二次アヘン戦争における天津条約(一八五八年)と、北京条約(一八六〇年)、清仏戦争の天津条約(一八八五年)、日清戦争の下関条約(一八九五年)、義和団議定書(一九〇一年)と続き、その都度懲罰としての賠償金と領土割譲が伴ったのである。当時の国際法における「最恵国待遇」とは、列強のうちの一番乗りの条約につき、後続の列強国も同等の権益を得ることができる(ただし、先行条約以上の内容を獲得することはできない。)という、列強についてのみ極めて有利なルールであって、このルールに基づき、英中間の右南京条約と同様の内容で右望廈条約及び黄埔条約が締結されたものである。後記の日米和親条約(一八五四年)及び日米修好通商条約(一八五八年)についても、右「最恵国待遇」ルールによって、前者につきオランダ、ロシアが、後者につきオランダ、ロシア、イギリス、フランスの要求により、徳川幕府は合計五か国と通商条約を締結したものである。近年、日米和親条約及び日米修好通商条約が「敗戦条約」でなく、「交渉条約」として締結されたため、その「不平等性」が中国などの敗戦条約と対比して比較的低く、アヘンの禁輸が明示されているなど、幕府としては最適の判断をしたものと評価されているようである(中央公論新社「世界の歴史二五巻・アジアと欧米世界」参照)。しかし、少なくとも、右「最恵国待遇ルール」などは、当時の欧米列強の軍事力を背景とした欧米にとってのみの正義に基づく「国際法」であって、その当否等については措くこととするが、現在では、条約に関する限り、後記の「条約法に関するウィーン条約」によって解釈し解決すべきことが合意されているものの、一九五三年(昭和二八年)七月二七日の朝鮮休戦協定の調印に至るまでの間についてはもちろん、最近のコソボ空爆等に至るまで、地球的規模で無数に繰り返されている民族の恨み、宗教、政治、軍事等が関わる諸々の熱い戦争、紛争が発生していることを見るとき、そのような戦争等について果たして何時どのような「国際法」が確立しているといえるのか、そもそも、民事法的観点からすれば「不法行為」以外の何ものでもない殺戮、破壊等が肯定されている戦争において、戦勝国ないし勝利者にも実際に適用されるような、真実「法」というに値するルールがどれほど確立しているといえるのか、平明率直に考えて、極めて遺憾ながら、数々の疑問があるといわざるを得ないところである。)。

3  一八四五年に最初のイギリス租界が上海に出現し、一八五〇年に太平天国の乱が起き(一八六四年まで)、一八五一年に清・ロシア間にイリ条約が成立し、一八五四年に日米和親条約が成立し、一八五七年にインド大反乱(セポイの乱)が起き、一八五八年に、日米修好通商条約が成立し、清がロシアとアイグン条約を、ロシア、アメリカ、イギリス、フランスと第二次アヘン戦争の敗戦に係る天津条約を締結し、インドではムガール帝国が滅亡し、一八六〇年に清はイギリス、フランスと北京条約を締結し、一八六三年にフランスがカンボジアを保護国化した。

(以下、事項のみを羅列する。)

一八六七年パリ万国博覧会、一八六八年明治維新、一八六九年スエズ運河完成、一八七〇年プロシア・フランス戦争、フランス第三帝政の崩壊、一八七一年ドイツ帝国成立、一八七四年フランスがヴェトナムと第二次サイゴン協約でコーチシナ獲得、日本の台湾出兵、一八七五年千島樺太交換条約、朝鮮軍との交戦(江華島事件)、一八七七年ヴィクトリア女王がインド女帝宣言(インド帝国成立)、西南戦争、一八七九年沖縄県設置(琉球処分)。

一八八三年フランスが阮朝を圧倒してヴェトナム全土を支配下に置き、一八八四年清仏戦争、一八八七年フランス領土インドシナ連邦成立、一八九一年大津事件、ロシアがシベリア鉄道建設に着工。

一八九四年に朝鮮で東学党の乱、日清戦争、ロシアでニコライ二世即位。

一八九五年日清講和条約(下関条約)、ロシア、フランス、ドイツによる三国干渉。

4  一八九八年清で康有為の変法運動、米西戦争でスペイン敗北(アメリカがハワイを併合し、フィリピンを植民地化)、イギリス九龍半島租借。

一八九九年アメリカのジョン・ヘイが中国の門戸開放宣言(西へ西へというアメリカの長年の政策が、それまでヨーロッパ、ロシア、日本の進出に劣後していた中国にまで及んだもの)、一九〇〇年義和団事件につき列国干渉軍派遣、一九〇一年オーストラリアがイギリス連邦の自治領となり、一九〇二年日英同盟。

一九〇四年(明治三七年)日露戦争、一九〇五年九月日露講和条約(ポーツマス条約。右戦争は中国東北部(満州)及び朝鮮をめぐる日露の権益争いで、双方の領土が戦場となっておらず、我が国指導層は敗戦まで覚悟して宣戦布告をし、日本軍は旅順要塞攻略、奉天会戦などで辛勝したにとどまったが、一九〇五年五月の日本海海戦でバルチック艦隊三八隻のうち三四隻を撃沈又は捕獲ないし中立港での武装解除を得るという圧勝をし、結局、強大国ロシアを敵としてアジアの島国が「戦勝国」となったということが世界を驚かせ(一九世紀末の人口はロシアが一億二四〇〇万人、我が国は三分の一の四四〇〇万人であり、一九〇〇年の銑鉄の生産量はロシアが二九三万トン、我が国は一〇〇分の一以下の二万三三〇三トンであった。なお、福岡県八幡村、現在の北九州市に建設された官営製鉄所が創業開始したのは一九〇一年である。)、アジア民族を勇気付けると同時に、欧米の我が国に対する警戒心を抱かせるようになったものである。右ポーツマス条約によって、我が国は韓国に対する指導権、旅順・大連の租借権と長春以南の鉄道及び附属権利の譲渡、北緯五〇度以南のサハリンの割譲、沿海州とカムチャッカにおける漁業権の承認を得たが、賠償金はなく、我が国の新聞などが右講和条件を非難し、東京日比谷公園の講和反対集会の参加者と警官隊が衝突し、破壊、放火行為がされ、軍隊が鎮圧するという大事件となり、神戸市や横浜市でも交番等が襲撃された。このように、十分な情報がないまま客観的冷静に判断をしない日本国民が、新聞等に煽られるなどして政府や軍部以上に強硬な対外交渉を求めるという事態が、一九四五年の無条件降伏まで続いていたように見える。なお、一九〇四年八月アムステルダムの国際社会主義大会(第二インターナショナル)でロシアのプレハーノフと日本の片山潜が共に副議長に選出され、一方、一九〇五年から一九〇七年までの間にロシア国内は各地で革命闘争が起き、ニコライ二世が種々の譲歩を約束したにもかかわらず、結局弾圧するという結果に終わり、そのことがかえって帝政の基盤を弱め、一九一七年の革命に至る伏線となったとされている。)。

一九〇七年イギリス、フランス、ロシア三国協商成立、ニコライ二世の提唱による第二回国際平和会議によって第二次ヘーグ陸戦条約採択(後記のとおり、交戦国に関する「総加入条項」があり、条約として発効していない場合が多く、日中戦争と第二次世界大戦との関係についても、明確でないところがある。)。

一九〇八年青年トルコ党革命、一九一〇年日韓条約調印(韓国併合)。

一九一一年中国辛亥革命、日本関税自主権確立。

一九一二年一月一日中華民国の成立(臨時大総統孫文。革命の旗印は当初は反満民族主義であったが、新政権は満州を含むものとして出発し、漢、満、蒙、回、蔵の五族を象徴する五色旗が選ばれた。しかし、イギリスはチベットを、ロシアは蒙古を、日本は満蒙(満州と東部内蒙古)を手中にしようとし、日本はロシアと密約して北京の経度を境に東部内蒙古を勢力範囲とすることとし、一方、ロシアは露蒙条約を結んで、外蒙古を独立させた。右中華民国の成立時、北京には北洋軍閥の頭目袁世凱の内閣による清朝があり、臨時政府には北京を攻略する力がなかったが、皇帝退位が画策されて実現し、袁世凱が南北双方から政権を譲り受けるという形となったものである。その後、袁世凱は、孫文との約束を陰謀によって履行せず、北京で自ら第二代大総統に就任して北京を首都とし、結局孫文の南京側もこれを承認した。一九一二年末から翌年二月にかけて全国規模の衆議院選挙が実施され(有権者は約二五〇〇万人。なお、中国では、これ以外に全国規模の国会議員選挙が実施されたことがない。)、孫文が代理として指名した宋教仁が率いる国民党が勝利したが、国会開会の直前の三月に宋教仁が袁世凱によって暗殺された。同年(一九一三年)四月国会が開催されたが、袁世凱は、イギリス、フランス、ロシア、ドイツ、日本の五か国から当時の中国政府の財政の一年分相当の大借款をし、これを資金として国民党を圧迫した。同党が反撃すべく第二革命を起こしたが、僅か二か月で鎮圧され、孫文らは海外に亡命し、袁世凱が初代の正式大総統に就任するに至った。同年一一月、袁世凱は「乱党」である国民党議員には国会議員の資格がないとしてこれを剥奪し、国会は定数不足によって自ら議事停止を決定した。袁世凱は、一九一六年の元旦を期して帝制を開始したが、反袁闘争が起き、日本はこれを積極的に支援し、同年六月袁世凱は失意のうちに病死した。その後一九二八年の張作霖爆殺までの一二年間に、北京政府の大総統には一一人(代行を含む)もの者がなり、そのうち一九一八年一〇月から一九二二年六月まで三年八月間の徐世昌が最も安定していたが、中国全体としてはいわば軍閥割拠というべき状態が続いており、一九一七年八月、孫文は、旧国会の議員を広州に呼び、「国会非常会議(護法国会)」を発足させ、中華民国軍政府を樹立し、非北洋系の西南軍閥に依拠したが、この軍閥と孫文との間にも依存と衝突という複雑な関係が繰り返され、国会自体が流浪し、元来の南北の対立のほかに、南北それぞれで軍閥間の戦争が繰り返されたものである。我が国、欧米、ロシアの中国への進出は右のような中国内部の政治的混乱に乗じてされたものである。)。

5  一九一四年八月第一次世界大戦勃発(一九一八年一一月のドイツ降伏まで。サラエボで皇太子夫妻を殺害されたオーストリア・ハンガリー二重帝国がセルビアに宣戦布告し、同盟していたドイツもやむを得ずセルビアに宣戦布告し、次いでイギリス、フランス、ロシアがドイツ、オーストリアに宣戦布告したものである。ヨーロッパ本土が戦場となったのは一九七〇年の普仏戦争以来で、当初いずれの国も三週間ないし二か月程度で戦争が終わると考えており、多くの志願兵が勇躍出征したが、機関銃が威力を発揮し、西部戦線、東部戦線がすぐに膠着化し、実戦で数々の毒ガスが使用され、飛行船によるロンドン、パリ等の都市空爆がされ、Uボートが戦果をあげ、空爆や空中戦がされ、戦車が開発改良されるなどして兵器が一気に現代化され、国民総力戦となり、戦争の悲惨さが欧米の諸国民に痛感された(なお、戦争が膠着化して、イギリス、フランスの植民地等から多数のアジア、アフリカ人が渡欧して従軍し、危険な任務を担当した。)。我が国は、右大戦勃発後、直ちにドイツに宣戦布告し、山東省青島のドイツ軍要塞を占領するなどしたものの、欧米諸国が右世界大戦から痛感した戦争の悲惨さは体験せず、「漁夫の利」を得て(右世界大戦によって、我が国はアメリカに次ぐ軍需利益を受け、種々の「成金」が発生した。)、中国大陸への侵略行為をし続けた。そのため、我が国は、第一次世界大戦から、現代戦争の悲惨さ、長期の戦争が交戦当事国を敗戦国であろうと戦勝国であろうと国力を消耗し尽くすものであり、戦争の早期終結が何よりも重要であることを含めて、政治、外交、軍事等につき多くのことを学ぶべきであったのに、これをせず、とりわけ、そのころ以降の政治家や軍部上層部らに、外交、国際問題等についての現実感覚が乏しい者が多かったことなどから、これを麻痺させたままであり、それらのことが、結局、一九四五年八月世界で初めての原爆攻撃を受け、ポツダム宣言を受諾して連合国に対しほぼ無条件で降伏するほかなくなったと評するものが多い。もっとも、それぞれの国内事情等による差異があるにせよ、第一次世界大戦から多くのことを学び損ねたというのは、ひとり我が国のみというわけではないと考えざるを得ない。)。

一九一五年、日本は中国に二一か条要求提出(中国国民はこれに激怒し、それまでに日本に留学していた多くの中国知識人らが一挙に本国に引き揚げた。一九四〇年ころまで、中国内部の政治的軍事的混乱に乗じて日本は中国をある程度制圧していたもの、右一九一五年の二一か条要求以来、中国国民の抗日運動は一挙に激化して連綿として続いており、それが後記の国共合作に至る基本的要素となったといえる。)。

一九一七年ロシア革命(欧米資本主義諸国を震憾させた。)、アメリカがドイツに宣戦布告、石井・ランシング協定(中国につき、日本の特殊権益をアメリカが尊重するという玉虫色での決着)、アメリカで禁酒法が議会通過、一九一八年シベリア出兵、一九一九年パリ講和会議(日本は、ドイツの山東権益を承継し、赤道以北の旧ドイツ領諸島の委任統治権を得た。日本はそれまでの間に、イギリス、フランス、イタリア、ロシアと密約を交わしていた。一九一八年の年頭教書で、新国際秩序と公正な講和原則として、秘密外交の廃止、植民地と本国との利害の公平な調整、民族の自治、独立等を保障する国際連盟の設立等を含む、「一四か条」を提唱したウイルソン大統領がリードする会議で、「公理」が踏みにじられ、大国日本の「強権」が罷り通ったことが「戦勝国」の中国国民に伝わると、未曾有の反日運動である五四運動が勃発した。)、ヴェルサイユ講和条約調印(中国は五四運動の影響等で調印拒否(南京条約の締結以来、列強との調印を中国が初めて拒否したもの。なお、アメリカは上院が批准否決し、一九二一年八月にようやく対ドイツ講和条約に調印した。)。

6  一九二〇年国際連盟成立、日本加盟、ニコラエフスクのパルチザンが日本軍民殺害(尼港事件)、一九二一年モンゴル人民政府樹立、中国共産党結成、連合国がドイツに賠償総額一三二〇億金マルク通告、ワシントン海軍軍縮会議、同会議で日米英仏四か国条約締結、日英同盟破棄(このころから、アメリカの日本に対する警戒的日本孤立化大戦略が徐々に現実化し、奏功して、太平洋戦争に至る。)、一九二二年スターリンが書記長に就任、イタリアでファシストがローマ進軍、ムッソリーニ首相に議会が全権委任、日本のシベリア派遣軍、北樺太を除いて撤退完了、一九二三年関東大震災、石井・ランシング協定破棄、トルコ共和国成立、一九二四年広州の孫文の「連ソ・容共」の下に第一次国共合作成立、孫文はソ連の赤軍のような党軍を建設しようとして黄埔軍官学校を創設(校長蒋介石)、北京政変により孫文「北上宣言」、この北上前、孫文が日本に寄り(日本の政治的財政的援助を取り付けようとしたが、日本政府は「赤化した」孫文の上京すら許さなかった。)、神戸で「大アジア主義」の講演、アメリカで排日移民法成立(日本からの移民を事実上禁止)、一九二五年三月孫文北京で逝去、一九二六年広州の国民政府が北伐開始(総司令官蒋介石)、ソ連の支援でモンゴル人民共和国成立、インドネシア共産党武装蜂起、一九二七年蒋介石反共軍事クーデター、蒋介石南京国民政府樹立、汪兆銘の武漢政府中共排斥、三年半に及んだ国共合作の終焉、南昌で中共蜂起、第一次山東出兵、中国国民政府ソ連と断交、一九二八年済南事変勃発(北伐により済南を占領した蒋介石軍と日本軍が衝突。戦闘が拡大したのは、日本軍及び日本政府の傍若無人な対応が原因であったが、日本では、軍部等に迎合するマスコミによって、日本側の被害が誇大に発表報道され、そのころから「暴支膺懲(ぼうしようちょう・横暴な支那(人)を膺ち(うち)懲らしめる)」という排外主義が全国民的に巻き起こった。日本を「一等国民」、中国を「三等国民」と見る気分が我が国全体に蔓延するようになった。そのような日本国民の中国国民に対する意識が、中国における侵略行為、戦闘に際して、軍部及び軍人等の中国国民に対する殺戮、略奪、捕虜虐待、破壊行為、婦女暴行等の一つの大きな原因となっていたものといわざるを得ず、いわゆる「南京虐殺」もそのような日本兵の中国国民に対する民族差別意識を基盤としてされたものというべきである。)、張作霖の爆殺(日本軍との戦闘を回避して北上する蒋介石軍を避け、北京を放棄して東北に退くこととした張作霖の特別列車が奉天に着く直前に関東軍が爆殺したもの)、国民政府軍は張作霖が放棄した北京に無血入城し、蒋介石が政府主席就任、同年末、張学良旧来の五色旗に代えて南京政府の新国旗「青天白日満地紅旗」を掲げる、一五か国による不戦条約(ケロッグ・ブリアン条約)調印。

7  一九二九年アメリカ発世界大恐慌発生、オランダ領インドネシアでスカルノら八人の国民党幹部が逮捕、一九三〇年インド国民会議派が「独立の誓い」採択、我が国ロンドン海軍軍縮条約調印、右調印をめぐり衆議院で「統帥権干犯」が問題となるが、枢密院がロンドン条約承認、台湾の原住民武装蜂起(霧社事件)、中国国民党内部の諸軍閥間の内戦が激化し、張学良の支援によって蒋介石軍が勝利し、張学良は北京、天津を手中にした、一九三一年九月一八日奉天城北方約四キロメートルの柳条湖で満鉄線爆破事件が起き、いわゆる満州事変勃発、国民政府が柳条湖事件を国際連盟に提訴、一九三二年、第一次上海事変、満州国建国宣言(執政は清朝最後の皇帝溥儀)、我が国五・一五事件、日満議定書調印、一九三三年ヒトラー政権掌握、ローズベルトが大統領就任(唯一四選した大統領で、一九四五年四月の死亡時まで就任)、国際連盟が日本の満州からの撤退案採択、日本国際連盟脱退を通告、ドイツが軍縮会議・国際連盟を脱退、アメリカがソ連承認、一九三四年満州国が帝政実施(皇帝溥儀)、中共軍大長征開始、日本ワシントン条約単独放棄、一九三五年ドイツ再軍備開始、ニュルンベルク法制定(ナチスのユダヤ人迫害強化)、イタリア軍エチオピア侵攻、一九三六年我が国二・二六クーデター事件、モンゴルの徳王が日本の支援を受けて内蒙古自治政府樹立、イタリアがエチオピア併合、スペイン軍モロッコで反乱、スペイン内戦開始(一九三九年まで)、日独防共協定調印、西安事変(張学良が蒋介石を拘禁して、抗日統一を迫った)、一九三七年ビルマがインドと分離し、イギリス直轄領となる、ドイツ空軍ゲルニカ無差別爆撃。

8  同年(昭和一二年)七月七日廬溝橋事件(これをもって「日中戦争」の開始とされることが多い。両国の宣戦布告がないので、我が国では「日華事変」と称した。当時の日中間の戦闘等につき、例えば「満州事変」「上海事変」などと「事変」との表現が当時も現在も使用されることがあるが、実相は我が国が他国の領土で展開した「戦争」ないし「侵略行為」にほかならないといえる。以下の日中の状況等に関する記述は、主として小学館ライブラリー「昭和の歴史」第五巻の藤原彰「日中全面戦争」(甲一八〇)による。同年五月三一日林銑十郎内閣が僅か四か月足らずで総辞職し、六月四日第一次近衛文麿内閣が成立し、同年七月七日北京城西南約六キロメートルにある廬溝橋(マルコポーロ橋)の付近で駐屯していた日本軍の初年兵一名が所在不明となったということが契機となって発生した。同月九日には停戦協定が成立したが、我が国は華北への出兵を決めた。当時の華北の中国側の実力者は蒋介石の率いる国民政府軍の傍系の地方軍閥である宗哲元であり、同人は我が国に対し妥協的な態度を採ろうとしたが、国民政府は、直ちに我が国に対し全面的抗戦を発動しようとはしていなかったものの、政府直系軍による抗戦準備を進め、中国共産党は同月二三日全国軍隊の総動員・全国人民の総動員・政治機構改革等々の八大綱領を宣言し、我が国に対する全面抗戦を訴えた。日本軍増援部隊の到着と共に華北の緊張が高まり、同月二五日夜以降戦闘が始まり、同月二八日早朝から日本軍の総攻撃が開始され、同月二九日までに、北京、天津等が日本軍によって占領された。その間に、通州において、傀儡政権の部隊と思って油断していた中国の保安隊が反乱を起こし、少数の日本軍守備隊と日本人居留民約二〇〇人を殺害し、「通州の大虐殺」として我が国で大々的に宣伝された。北京等の占領以降、中国国民の抗日感情が激化する一途となり、一方、我が国では思想統制が公然化し、かつマスコミ等でも大政翼賛会的風潮が強まった。)、八月一三日第二次上海事変(華北で戦闘が始まると、華中の上海でも緊張が高まった。当時、上海は中国最大の工業都市で、太平天国の乱以来列強の中国進出の拠点となっており、フランス租界と、イギリス、アメリカ・日本などの共同租界とが治外法権の区域として存在し、日本人居留民が集中し、一方、労働者、学生を中心として抗日民族運動が盛んな地域であった。)、九月二三日国共合作成立、一〇月三〇日重慶遷都、一一月六日イタリアが日独防共協定に参加、一二月イタリア国際連盟脱退、タイが完全な自主権獲得、同月一三日日本軍南京占領(方面軍司令官松井石根大将。この占領に際して「南京虐殺」があり、これを認識していたとして、極東国際軍事裁判(東京裁判)で死刑宣告、なお、一九四六年二月の南京での軍事法廷裁判でも、南京虐殺の責任を問われて四名の日本軍将校が死刑宣告を受けた)。上海から南京までは約三〇〇キロメートルあり、蒋介石が徹底抗戦を指令したため、日本軍の上海攻略は一九三七年一一月五日の杭州湾上陸(火野葦平の「土と兵隊」はその際の従軍記である。)によりようやく一段落し、同月中旬上海を制圧したが、日本軍及び日本兵はその戦闘により多大の損傷を受けた上で、心身ともに消耗、疲弊した兵士らの士気低下、軍紀弛緩等が問題となっていたまま、一一月二〇日南京追撃が指令され、正式な命令のないまま強行された南京攻略は、日本国民の期待とあいまって、一二月一日正式に決定された。南京の特別市の全面積は東京都、神奈川県及び埼玉県を併せた広さで、一一月末から事実上開始された進軍から南京陥落後約六週間までの間に、数万人ないし三〇万人の中国国民が殺害された。いわゆる「南京虐殺」の内容(組織的なものか、上層部の関与の程度)、規模(「南京」という空間や、虐殺がされたという期間を何処までとするか、戦闘中の惨殺、戦闘過程における民家の焼き払い、民間人殺害の人数、便衣兵の人数、捕虜の人数、婦女に対する強姦虐殺の人数)等につき、厳密に確定することができないが、仮にその規模が一〇万人以下であり(あるいは、「虐殺」というべき事例が一万、二万であって)、組織的なものではなく「通例の戦争犯罪」の範囲内であり、例えばヒトラーないしナチスの組織的なユダヤ民族殲滅行為(ホロコースト)と対比すべきものではないとしても、「南京虐殺」というべき行為があったことはほぼ間違いのないところというべきであり、原告Aがその被害者であることも明らかである。南京虐殺は日本軍及び日本兵の残虐さを示す象徴として当時から世界に喧伝されていた(我が国にも多大の非があったにせよ、少なくともその当時我が国は「世界の孤児」であり、真実の友邦はなく、ほとんどの国から警戒され、敵対されていたものである。そのような状況からして、政治的意図をもって、その当時及び我が国の敗戦直後誇大に喧伝されたという側面があるかもしれないが、そうであるからといって、「南京虐殺」自体がなかったかのようにいうのは、正確な調査をしようとせず、「南京」の面積と当時の人口が小さいとし、結局、現時点において正確な調査や判定をすることが難しいことに乗じて、断定し得る証明がない以上事実そのものがなかったというに等しく、正当でないというべきであろう。)。なお、一九三八年一月五日に南京に着いた石川達三が描いた「生きている兵隊」は、反軍反戦小説というわけではないのに、南京の右当時における日本軍兵士の様子をよく示している(もとより、殺害等の量まで推測させるものではない。)と考えられ、それが虚構であるとは到底考えられないところである(なお、右は、同年二月一七日に配本された「中央公論」三月号に多くの伏字付きで掲載されたものであるが、翌日発売禁止とされ、石川は「新聞紙法違反」で起訴され、禁固四月、執行猶予三年の判決を受けた。中央公論新社の中公文庫「生きている兵隊」末尾の半藤一利解説参照)。

9  一九三八年(昭和一三年)一月近衛文麿内閣第一回近衛声明「国民政府を対手とせず」、ドイツがオーストリアに侵攻して合邦、三月二八日中華民国維新政府南京に成立、四月一日中国国民党「抗戦建国綱領」、我が国国家総動員法公布、五月二六日毛沢東「持久戦論」報告、同日アメリカ下院非米活動委員会設置、七月二九日張鼓峰事件(ソ連と国境を接している朝鮮半島最北端の張鼓峰付近で日本軍一個師団とソ連軍二個師団が交戦し、ソ連軍の飛行機、戦車、重砲を繰り出す近代戦に日本軍が大打撃を受けた。八月一一日休戦)、九月二八日ミュンヘン会談、同月二九日同協定(ズデーテン地方をドイツへ割譲)、一〇月二五日日本軍武漢占領、一一月八日ドイツ全土でポグロム(ユダヤ人住民とその住宅・店舗に対する非ユダヤ住民の集団的な襲撃・破壊・虐殺。元来一八八一年以来ロシアで繰り返し起こったものをいう。「水晶の夜」ともいわれる。)。

右一九三八年、満州国ハルビンの平房に七三一部隊のため数十棟の建物を備えた研究所と附属の飛行場が建設された(石井四郎の細菌研究部隊は、既に一九三四年ころから、その付近の五常に研究所を設置していたが、これを拡大するため平房に建設したものである。細菌兵器の大量生産、実戦での使用を目的としていたものであり、そのため、「丸太」と称する捕虜による人体実験もされた。一九四五年八月、証拠隠滅のため施設が徹底的に爆破された。戦後の極東軍事裁判ではその責任が問われなかったが、ソ連及び中国の軍事裁判ではその実態が追及され、責任が問われた。「人体実験・七三一部隊とその周辺」(甲一九〇)が具体的であり、右の存在と人体実験等がされていたことについては、疑う余地がないと認められる。)。

一九三九年三月一五日ドイツがチェコスロヴァキア解体、四月一日スペインフランコの勝利宣言、五月一二日ノモンハン事件勃発(モンゴルと中国(当時満州国で、事実上日本)国境のそれ自体としてはほとんど戦略的価値のないハルハ川で日ソ両軍が交戦。日本軍の戦没者約一万八〇〇〇名、出動人員の七六パーセントの死傷率で、太平洋戦争で最も悲惨といわれるガダルカナル会戦の死傷率三四パーセントを遙かに上回る最悪の戦闘といわれている。もっとも、ソ連軍の被害も甚大であったとされている。そのすべてが正鵠を射ているものかについてまでは当裁判所には判然としないが、当時のスターリン、ヒトラー、大本営の動きを含めて、半藤一利「ノモンハンの夏」文藝春秋一九八八年発行参照)、一九三九年八月二三日独ソ不可侵条約調印(これによる同月二八日平沼内閣総辞職)、九月一日ドイツ軍ポーランド侵攻(第二次世界大戦開始)、九月三日イギリス、フランスがドイツに宣戦布告、九月五日アメリカ中立維持声明、九月一六日午前七時を期してノモンハン事件につき一切の敵対行動が停止され、これをまって翌一七日午前六時ソ連軍はポーランドへの侵攻開始、一一月三〇日ソ連軍がフィンランドを攻撃、一二月一四日国際連盟がソ連を除名。

一九四〇年三月二九日「中華民国政府」南京に成立(汪兆銘代理主席)、五月一〇日チェンバレンに代わりチャーチルが首相就任、同月オランダ、ベルギーがドイツに降伏、六月一〇日イタリアがイギリス、フランスに宣戦布告、六月一二日日本軍誼昌占領、六月一四日ドイツ軍パリ占領、七月一一日フランスでヴィシー政権成立、七月二三日第二次近衛内閣成立、八月三日ソ連バルト三国併合、八月二〇日八路軍百団大戦発動、九月一六日アメリカで初めて平時選抜徴兵法制定、九月二三日日本軍フランス領北部インドシナ(現在のヴェトナム北部)武力進駐、九月二七日日独伊三国同盟調印、一〇月三日フランスがユダヤ人排斥法公布、一一月一〇日我が国紀元二千六百年祝賀行事、一一月三〇日日本汪政権承認。一九四一年一月ボースがインド国外に逃れる。

同年四月一三日日ソ中立条約調印(ヒトラーは、一九四〇年一一月にソ連侵攻を計画し、同時にイギリス本土上陸作戦を放棄し、一九四一年春にソ連への侵攻を開始する予定であったが、日本側に対してその意向を明らかにしなかった。)、五月ヴェトナムでベトミン結成、六月独ソ開戦(イタリアもソ連に宣戦布告。ドイツ軍が破竹の勢いでソ連を進軍しモスクワ付近まで迫ったが、ナポレオンの遠征の場合と同様に「冬将軍」が到来し、ドイツ軍のほとんどが戦死ないし捕虜となった。以来ドイツは守勢となる。)、七月二日我が国南部仏印進駐決定、七月二五日米英中三国の軍事合作協議、アメリカが日本の在米資産凍結、八月一日アメリカが日本への石油輸出全面禁止、八月一四日大西洋憲章発表、九月六日日米開戦をも含んだ御前会議決定、一〇月二八日カンボジアでシハヌーク王即位。

同年一二月八日我が国は米英蘭などに宣戦布告、真珠湾を奇襲(なお、ハワイがアメリカ合衆国に含まれるようになったのは、第二次世界大戦後であり、当時はアメリカ合衆国の統治下にあった。)、その直後、アメリカが日本、ドイツ、イタリアに宣戦布告をし、蒋介石の国民政府も右三国に宣戦布告をした(この年、国民政府が秘密裏に「共産党問題処理辧法」を作成し、中共攻撃を強化)、一二月二五日日本軍香港占領、一九四二年一月二五日タイが連合国に宣戦布告、二月一五日シンガポール陥落、三月八日ラングーン陥落、四月五日日本軍セイロン爆撃、四月一三日米軍東京など初空襲。

同年六月四日ミッドウエー海戦で日本軍敗北(以来日本軍は太平洋での制海権制空権を失う。この時点までの我が国の南方進出はほとんどの戦闘で圧勝し、破竹の勢いで東南アジア全域と、東太平洋に広大な支配地域を築いたが、統治のヴィジョンを欠き、ミッドウエー海戦での敗北以来、結局、我が国本位の支配しかできず、次第にほとんどのアジア人からも嫌われるところとなり、一九四五年の敗戦に至るのである。)。

一九四二年一一月二七日蒋介石夫人宋美齢ニューヨーク到着(約半年間にわたりアメリカ各地を回り、中国の抗日戦線への支援を訴え、奏功)。

一九四三年一月中国の汪政府が米英に宣戦布告、二月一日日本軍ガダルカナル島撤退、八月日本ビルマに「独立」付与、一〇月ジャワで郷土防衛義勇軍創設、日本フィリピンに「独立」付与、ボース日本の承認の下にシンガポールでインド臨時政府樹立、インド国民軍の司令官となる、一一月五日東京で大東亜会議開催(日本、タイ、フィリピン、ビルマ、汪政府の各代表参加。同月六日大東亜共同宣言発表)、九月イタリア降伏、一一月二二日蒋介石が米英とカイロ会談(同月二七日カイロ宣言署名。これが、その後のポツダム宣言に受け継がれた。)、一一月二八日テヘラン会談、一二月一七日アメリカ合衆国が中国人移民禁止法廃止。

一九四四年ボース、日本軍と共にインパールに侵攻、五月ガンディー釈放、八月ビルマでアウン・サンら抗日統一戦線組織結成。

一九四五年二月ヤルタ会談、三月ヴェトナムのバオダイ帝が独立宣言、東京大空襲、アラブ連盟憲章調印、ビルマ国軍が日本軍に反乱。

同年四月三〇日ヒトラー自決、五月七日ベルリンでドイツ軍が連合国への無条件降伏文書に署名(同日フランスでも降伏)。

同年六月二六日五〇か国が国際連合憲章に調印。

同年七月一七日から八月二日まで、ベルリン郊外のポツダムで、米英ソの三巨頭(トルーマン、チャーチル、スターリン)によるいわゆるポツダム会談が開かれ、その間の七月二六日、米英中によるポツダム宣言が発表された(戦争終結に際しての我が国の降伏条件を我が国に対して発した共同宣言で、軍国主義的指導勢力の除去、戦争犯罪人の厳罰、連合国による占領、日本領土の局限、我が国の徹底民主化などの条件を規定しており、ソ連は当時我が国に宣戦布告していなかったので、八月八日の参戦と同時に参加した。)。

同年八月六日広島に原爆投下、八月八日ソ連対日宣戦布告、八月九日長崎に原爆投下、八月一四日我が国はポツダム宣言を受諾して連合国に対して無条件降伏(もとより、カイロ宣言及びポツダム宣言記載の条件による降伏であって、形式的には条件付き降伏である。しかし、一五項目にわたる条件を見ると、実質的にはほぼ無条件降伏に近い内容というほかない。本裁判においてポツダム宣言の受諾が無条件降伏というのは、その趣旨である。)をし、蒋介石が抗戦勝利を放送。

同月一七日インドネシア共和国が独立宣言(スカルノ大統領)、フィリピン共和国が消滅を宣言、同月一八日ボース台北で飛行機事故死、九月二日東京湾ミズーリ艦上で重光葵外務大臣降伏文書に調印、ヴェトナム民主共和国独立宣言(ホーチミン大統領)、九月六日朝鮮人民共和国樹立宣言(ソウル)、一〇月一〇日中国国民党と共産党が双十協定に調印、一〇月一二日ラオスで自由ラオス臨時政府樹立。

10  一九四六年(昭和二一年)一月一日天皇神格化否定の詔書、二月ボンベイでインド海軍反乱。

同年五月極東国際軍事裁判(東京裁判)開廷(ニュルンベルク裁判はそれ以前に始まっており、ニュルンベルク裁判では主としてナチスのユダヤ種族に対する非人道的残虐行為(ホロコースト)という国内的な問題が対象とされ、東京裁判では、外国に対する侵略行為とこれに伴う残虐行為についての指導責任等という国外的戦争犯罪が対象とされた。右各裁判の正当性、妥当性、あるいは、両裁判を対比してドイツと我が国とにおける処罰対象の選択や裁判規範に異同のあることなどをめぐって、現在なお諸々の議論があるところである。また、いわゆる「戦後補償」に関し、ドイツでは連邦補償法などに基づき、ホロコーストの犠牲者に対して総額一〇〇〇億マルク(約六兆五〇〇〇億円)の補償をし、今後強制労働従事者に対する補償もドイツ企業の共同基金によって開始されることになっているが、そのほとんどが国内的処理としてされており、外国(人)等に対する賠償はほとんどされていないようである(主としてユダヤ人に対する補償がされており、ナチスが優性学的見地からした同胞人に対する殺害、断種についての補償、ジプシーに対する補償等の問題はなお解決されていない。ただし、ドイツには東西ドイツに分裂したという事情や、例えばポーランドにおけるドイツ人資産を失ったなどという我が国とは別の問題があるようである。)ところ、日本は国家としてアジア諸国に対する賠償をし、加えて、経済援助をするなどというドイツとは別の途を選んだ(自主的に選んだのか、当時の我が国及びこれを取り巻く政治経済その他諸般の事情によって、そのような解決しかできなかったのか、必ずしも明確でない。我が国の右賠償等の内容を若干具体的に述べると、現実にサンフランシスコ平和条約を根拠に賠償請求をしたのは、フィリピンとヴェトナムで、前者は一九五六年に支払期間二〇年で一九八〇億円、後者は一九五九年に支払期間五年で一四〇億四〇〇〇万円という賠償協定を締結し、履行した。平和会議に参加しなかったビルマとは、一九五四年に支払期間一〇年で七二〇億円という協定を締結し、履行し、加えて、別途の無償援助が合意された。サンフランシスコ平和条約に署名したが、批准しなかったインドネシアとは、一九五八年に支払期間一二年で八〇三億円余という賠償協定を締結し、履行した。他に右四か国に対して経済開発借款の供与が合意された。賠償請求権を放棄したカンボジアとラオスに対しては、一九五九年にそれぞれ経済技術協力協定を締結し、一五億円及び一〇億円の無償援助を供与した。これらの質量が十分なものであったかどうかについては議論があろうが、賠償時点における我が国の国家予算の規模と対比する限り僅かなものとは少なくとも断定できず、加えて、韓国併合は一九一〇年に条約によってされたものであり、その当時や、日中戦争、太平洋戦争当時、アジアには、日本、中国、タイのほかには独立国がなかったなどという、ドイツとは別の複雑な要素があり(ただし、一部は共通するであろう。)、アジアのいずれの国にどれだけの賠償をすべきであったのかという、ほとんど論理的に決することができない政治経済的な問題があったというべきであろう。)。したがって、我が国は、個人に対する補償については、軍人、軍属に対する保障制度を除いて国内的にもほとんど全くしていない。同盟をして同じく第二次世界大戦の敗戦国となったものの、ドイツはヨーロッパにおいて、日本はアジア・太平洋においてそれぞれほとんど別の戦争をしていたとすらいえるのであって、それぞれの戦後の賠償問題、補償問題の在り方が異なることについては、それぞれの戦争に至る歴史的経過の違い、戦争の内容、同じく戦争犯罪があったとされるものの、その内容、規模、性格が異なること、それぞれ賠償ないし補償当時における国際環境、賠償能力等々も違うことに由来するのであって、どちらか一方の解決方法のほうが明らかに優れているなどという判断は容易にできるものではないというほかなく、いずれにしても、それぞれの国の政治的判断としてされるほかない領域というべきであろう。以上につき、例えば、岩波新書・藤田久一「戦争犯罪とは何か」、毎日新聞平成一一年八月二六日朝刊中の「冷戦終結一〇年第一部・壁が消えて―ベルリン復活③」、文春文庫・西尾幹二「異なる悲劇日本とドイツ」など参照)。

一九四六年(昭和二一年)七月中国共産党、国民党軍への自衛戦争指示、一一月三日日本国憲法公布、一二月ヴェトナム民主共和国とフランスとの戦闘本格化(第一次インドシナ戦争)。

一九四七年五月三日日本国憲法施行、八月一四日パキスタン独立、翌一五日インド独立、一一月カシミールで印パ交戦。

一九四八年一月ビルマ連邦独立、ガンディー暗殺、二月セイロン独立、五月エジプトとイスラエルの第一次中東戦争開始(一九四九年二月に停戦協定)、六月ベルリン封鎖、八月一五日大韓民国成立、九月九日朝鮮民主主義人民共和国成立、一九四九年一月二五日ソ連と東欧五か国コメコン創設発表、一月三〇日中華人民解放軍が北平(北京)に入城、四月西側一二か国が北大西洋条約調印(NATO設立)、七月・八月下山事件、三鷹事件、松川事件発生、九月一五日ドイツ連邦共和国(西ドイツ)で初代首相にアデナウアー選出、一〇月一日中華人民共和国成立、一〇月七日ドイツ民主共和国(東ドイツ)成立、一一月一二日極東国際軍事裁判判決、一二月八日蒋介石の国民党政府台北遷都を決定、一二月一六日毛沢東訪ソ、一二月二七日オランダがインドネシア連邦共和国に主権委譲、一二月三〇日インドが中華人民共和国承認。

一九五〇年六月朝鮮戦争開始(一九五三年まで)、七月マッカーサー警察予備隊創設を指令、一〇月中国義勇軍朝鮮戦争に介入。

一九五一年(昭和二六年)九月四日サンフランシスコ講和会議開始、同月八日同講和条約(会議に参加した五一か国(我が国を含めると五二か国)のうち、ソ連、ポーランド、チェコスロヴァキアを除く四八か国が署名。インドネシアは署名したが、批准しなかった。インド、ビルマは会議に参加しなかった。中国は、曲折の末、中華人民共和国政府も中華民国政府も会議に招請されなかった。)、日米安全保障条約調印、日華平和条約調印(台湾の蒋介石政府が我が国に対する賠償請求権放棄)。

一九五四年五月フランスがディエンビエンフー要塞でヴェトナム人民軍に降伏、七月二〇日インドシナの停戦に関するジュネーヴ協定調印。

一九五六年七月エジプトのナセル大統領がスエズ運河の国有化宣言、一〇月一九日日ソ共同宣言、一〇月二四日ハンガリー事件(ソ連第一次介入)、一〇月二九日スエズ戦争(第二次中東戦争)勃発、一二月我が国の国際連合加盟案可決。

一九五九年一月一日カストロらキューバ政権掌握、三月チベットの中国に対する反乱勃発(中国軍に鎮圧され、ダライ、ラマはインドに亡命)、五月日本と南ヴェトナムとの賠償協定締結、八月中印国境紛争起きる、九月中ソ対立本格化、一九六〇年ソ連が中国への派遣技術者引揚通告、

11  一九六二年一〇月対キューバ海上封鎖、米ソ戦争の危機。

一九六三年一一月ケネディ暗殺。

一九六四年アメリカのヴェトナム介入本格化。

一九六五年捏造されたトンキン湾事件を口実としてアメリカ軍北爆開始、日韓基本条約調印、一九六七年小笠原諸島日本復帰。

一九六九年七月ニクソンドクトリン(米国のヴェトナムからの漸次撤退と中国に対する緊張緩和政策の採用)、同年三月と八月中ソ国境武力衝突。

一九七一年一〇月国連総会が台湾を追放し、中国を加盟国として承認。

一九七二年二月ニクソン訪中、上海コミュニケ(米中共同宣言)発表、五月沖縄返還、七月七日第一次田中角栄内閣成立。

同年九月二九日日中共同声明(日中の「不正常な状態の終了」)。

一九七三年日本が東ドイツ、北ヴェトナムと国交樹立、東西ドイツが国連に加盟、一九七五年ヴェトナム戦争終結。

一九七七年文化大革命終了宣言。

一九七八年六月ヴェトナムがカンボジア侵攻。

同年八月一二日日中平和友好条約調印、一二月米中国交正常化発表。

一九七九年一月一日米中国交回復、台湾がアメリカとの国交断絶、二月イランでイスラーム革命、中国軍ヴェトナム侵攻、四月中国が中ソ友好同盟相互援助条約の廃棄を通告、一二月ソ連軍アフガニスタン侵入。

12  以降の歴史は、それまで以上に複雑であり、省略することとするが、周知のとおり、いわゆる「冷戦」が終わり、ソ連が解体し、東西ドイツが統一されるなどしても、兵器メーカーや武器商人などを通じて、過剰な武器売買や、新型兵器の開発などがされ、そのような状況下に、旧ユーゴスラビア、アフリカ、パレスティナ、アラブ地域、アフガン等の中央アジア、パキスタン、インド、インドネシア、旧フランス領インドシナ地域等の東南アジア、東チモール等々で、なお無数の「熱い戦争」が繰り返されているところであり、我が国周辺においても平和が確立しているわけではなく、そのような全地球的な混乱について、欧米の植民地主義、帝国主義的進出と恣意的な現地の分割統治(アフリカにつき顕著である。)にも大きな責任があり、一九四五年の降伏に至るまでの我が国の右欧米を模倣した大義名分のない外国進出にも相当の責任があるというべきであろう。

我が国の前記のようなアジアにおける侵略行為が、結果としてアジア諸国の独立をもたらした重要な契機となっているとしても、そのことをもって、右敗戦に至るまでの間に我が国がアジアの人々に対してした多大の侮辱的行為や侵略的行為について、我が国は、今後も反省し続け、将来にわたるアジアの平和と発展に寄与すべく最大限の努力をしなければならないというべきであり、これを否定することはおよそ許されないというべきである。

13  しかるところ、後記のヘーグ陸戦条約三条が仮に個人の請求権を根拠付けとしても、講和条約などによる請求権放棄の法的効果が問題となり得るので、ここで言及しておく。

まず、「この条約に別段の定がある場合を除き、連合国は、連合国のすべての賠償請求権、戦争の遂行中に日本国及びその国民がとった行動から生じた連合国及びその国民の他の請求権並びに占領の直接軍事費に関する連合国の請求権を放棄する」と定めた「日本国との平和条約」(サンフランシスコ平和条約)一四条(b)や、「両締約国は、両締約国及びその国民(法人を含む)の財産、権利及び利益並びに両締約国及びその国民の間に請求権に関する問題が一九五一年九月八日にサンフンシスコ市で署名された日本国との平和条約第四条aに規定されたものを含めて、完全かつ最終的に解決されたこととなることを確認する」と定めた「財産及び請求権に関する問題の解決並びに経済協力に関する日本国と大韓民国との間の協定」二条1などの意味がその典型例として問題となる。

本件に関わる中国との間でも、後記のとおり、一九七二年の「日本国政府と中華人民共和国政府の共同声明」の第五に「中華人民共和国政府は、中日両国国民の友好のために、日本国に対する戦争賠償の請求を放棄することを宣言する」旨の定めがあり、この宣言は、一九七八年一〇月二三日に効力を生じた「日本国と中華人民共和国との間の平和友好条約」の前文において「厳格に遵守されるべきことを確認」するとされている。

14  右につき、日中間においては、次の三つの主張のいずれかあるいはそのすべてが妥当するという見解がある(主として、後記の「阿部意見」の要約である。)。

まず第一に、賠償請求放棄を謳った日中共同声明の起草過程において、日本軍(の構成員ら)の引き起こした南京虐殺などに係る損害賠償の問題が両国代表によって審議されることはなかったのであるから、そもそも、それらの損害に起因する賠償請求は、共同声明上、放棄の対象に含まれていない。

第二に、放棄の対象になるかどうかにかかわらず、共同声明において賠償請求を放棄した主体は「中華人民共和国政府」に限定されており、個人は除外されている。この点、放棄する主体として、国家と並んで「国民」を明示した対日平和条約や日韓協定との違いは明白である。一九九五年三月七日に、全国人民代表大会において銭其・副首相兼外相(当時)が「日中共同声明で放棄したのは国家間の戦争賠償であって、個人の賠償までは含まれない」と明言したことから分かるように、中華人民共和国政府もこの認識を支持している。一九九七年一一月五日のボン地裁判決も、こうした認識に極めて親和的な判断を示すものであった。同地裁は、戦争行為に起因する賠償請求を国家間レベルに限定する国際法上の原則は存在しないという連邦憲法裁判所の審査結果を受け、一九五三年八月二四日のポーランドによる賠償放棄宣言と一九五二年九月一〇日のドイツ・イスラエル間の協定が、ともに個人の請求権を消滅させるものではないと判示した。その理由として、同裁判所は、前者については、右宣言がポーランド市民の個人請求権を含まないと明言していること、後者については、協定がイスラエル国の統合費用を支払う以上のものでなく(つまり、個人に賠償を支払うものでなく)、またイスラエル国民の個人請求問題への言及もないことを挙げている。共同声明から個人賠償の側面が除外され、更に実際にも被害を受けた者に対する賠償が全くといっていいほどされてきていない日中間の戦後処理の実態は、ボン地裁の論理からすれば、当然、個人請求権の存続に有利に解されることになろう。

第三に、右第一及び第二の主張の適否にかかわらず、個人の賠償請求権は、それ自体個人に固有の権利であって、所属国政府の判断によって剥奪されるものではない。平和条約など国家間の取決めによって処理されるのはあくまで国家間レベルの賠償問題であり、そこに個人の賠償問題までが没入してしまうわけではない。

戦時中の損害に対する賠償処理は、戦勝国に有利な形で極めて政治的に取り扱われるのが一般的現実であり、その際、交戦法規違反によって生じた個人の損害が賠償額算出の基準に用いられる保証はなく、それどころか実態はそうでないことがほとんどであって、「一括処理」という形で問題解決が企図されるにしても、それは国家間のことであり、通例、個人レベルでは問題は清算されずに残ってしまう。理論的には、国家間の賠償処理により個人の損害が十分に補填されれば、個人の賠償請求権を支える実体的根拠がなくなるのだから、権利自体が実質的に消滅するという事態もありえようが、個人の請求権は「無形的」損害までを含むのであり、したがって個人の損害が国家間の賠償によって十分に補填されるのを期待することは現実には難しい。まして中国の場合は、十分・不十分という以前に、被害者への賠償それ自体が全くされておらず、個人の請求権を支える実体的根拠の消滅について語る余地はない。

ヘーグ陸戦条約三条の文脈に照らした用語の通常の意味、準備作業、事後の実行に基づき、同条が、個人を請求主体に取り込んだ規定であるという解釈は、同条の審議経緯を一九九〇年代に至って詳細に分析し公表したオランダのカルスホーベン博士(甲一では、「テオ・ファン・ボーベン」と表記されており、後記のとおり、更に別の表記もあるが、以下適宜いずれかの表記をする。)やロンドン大学のグリーンウッド教授、ベルギー自由大学のダビッド教授、更にニューヨーク大学のテオドア・メロン教授といった、国際人道法の世界的権威によって支持されている。日本は、憲法九八条二項を媒介にして、条約を国内法化し、裁判を通じて国際法の遵守をはかる体制をとっている。ヘーグ陸戦条約も当然に日本の国内法と位置付けられるのであり、そうである以上、憲法や他の法令と同じように適用可能の推定を受けてしかるべきである。同条約三条については、そうした推定を覆すだけの特段の事情は存在しない。したがって、同条を直接適用可能と判断することに問題はない。なお、自動執行性(直接適用可能性)と国際法主体性を連動させたり、「主観的・客観的要件」の充足を要求したりすることは、これまでの圧倒的な裁判実務と適合せず、学説上も問題視されている。

歴史の事実が明らかにしているのは、過去の戦後処理のほぼすべてが、政治的な決着を見てきたということである。しかし、正義を担う「法」が存在しなかったわけではなく、ただ、それを実現するための環境整備が難しく、第二次大戦後も、特殊な国際政治情勢や本国の民主化の遅れなどから、多くの被害者がその声を封殺されてきたにとどまる。日本やドイツで第二次大戦中の不正義が語られるようになったのは、ようやく一九九〇年代に入ってからであり、この間、実際に援用される機会が少なかったとはいえ、ヘーグ陸戦条約三条は、戦争によって被害を受けた個人に、一貫して賠償請求権の基礎を用意し続けてきた。当該規定は、日本国憲法を通じ、そのまま日本の国内法に受容されている。そのようなものとして同条項を認識し、適用することが、国際協調主義を体現する憲法九八条二項の要請にもっともふさわしい司法的営みである、というのである。

原告らの主張、請求は右のような考え方に依拠しているものであるが、後記のとおり、当裁判所は、結論として、これを採用することができないとするものである。なお、右のうち、「日本やドイツで第二次大戦中の不正義が語られるようになったのは、ようやく一九九〇年代に入ってから」であるというのは、明らかに事実に反するもので、ドイツにおいても我が国においても、敗戦以降現在まで繰り返し右「不正義」が語られ、その責任が問われていたものである。そして、前記及び後記のとおり、ドイツと我が国は実質的に全く異なる戦争をそれぞれがしていたというのがより実相に近いのであり、戦争に至る経過、戦争犯罪の質量、右「不正義」の内容など、それぞれが別個のものであるから、本件を見るに際して、ドイツの場合と我が国の場合とを対比すること自体に格別の意味があるとは考えられないのである。むしろ、「国際法」の問題である以上、本件当時及び現在における戦争及び戦争被害に係る賠償問題が、無数の戦争につき国際的にどのように取り扱われていたのか、どのように取り扱っているのかを全世界的規模で検証し、その上で、本件当時何が確立していた「国際法」であったといえるのかを考えるのが相当である。

15  一般論として、戦争についての戦後処理の問題は極めて複雑で困難な問題であることは疑う余地がないところ、昭和二〇年八月の連合国に対する降伏に至るまでの我が国のアジアにおける戦争行為についても同様である。前記の我が国の中国を含むアジア諸国、諸民族に対する侵略行為につき、我が国の政府が「反省とお詫び」を繰り返し表明しているものの、それらをもって既に十分な謝罪表明がされているというべきか、きちんとした謝罪表明がいまだされていないというべきかについては、我が国の国民間においてすらなお議論のあるところである。右謝罪の点を含めて、我が国が中国を含むアジア諸国、諸民族に対してどのような形で対応すべきであるのかという問題は、もとより我が国の国会及び内閣で決すべき政治的外交問題というべきであり、本裁判の主題でもないので触れない。

ただ、本件が直接関係している「戦争犯罪」や、「戦争被害」について、個人が外国国家に対して直接損害賠償を求めることができるという権利を認めるのが相当であるかという国際法的な一般問題に関する限りで言及すると、後にも述べるように、おそらく戦争は国家、民族、文明と同時に誕生しているものであり、我が国が江戸時代の長い鎖国を解いた一九世紀の半ば以降に限っても、現在に至るまでの間、世界中のあらゆる国家間、民族間、各地域で無数の戦争のあったものであり、その戦争の原因と正義が仮に確定できたとしても、本件で問題とされている我が国と中国との間についてのみならず、多数の国家間ないし民族間において、当該戦争ないし紛争について一応の平和条約が締結され、あるいは、これに相当する共同宣言、共同声明等がされて戦争状態が解消されてから、二〇年、三〇年、更には五〇年、一〇〇年も経過した後にまで、右戦争等について十分な謝罪等があったかないかを問い、その上国家間ではなく、個人の損害について個人と外国との間についてまで法的に賠償を求める権利を有するとすることが、果たして真実将来にわたる諸々の国家ないし民族間における国際的な平和と友好に資するものであるかについては、相当の疑問があるといわざるを得ない。

原告らの主張のとおり、前記のようなこれまでの戦争等の歴史を学び、それを反省の糧とすることが極めて重要かつ有意義であるとしても、それと同時に、現在及び将来にわたる諸国ないし諸民族間の平和と友好関係を構築し、戦争の惨禍を再び繰り返さないということこそが二〇世紀末の現時点における至上の要請であるとすれば、たとえそれが自らの正義等には適わないものであったとしても、相互に相手方の国家ないし民族の在り方を受容し尊重することが大前提となるのである。そうであれば、右のような平和条約等によって戦争状態等が解消され、国家間ないし民族間において戦争に係る賠償問題について合意があった以上、その存在及び内容を積極的に肯定し、それを一つの区切りとして、各国家、民族のそれぞれの宗教、文化、生活様式等の現状における在り方を前提とした上で、互譲の精神によって現在及び将来にわたる諸国ないし諸民族間の平和と友好関係を構築するように努力するのが、当面最良の方策のように考えられ、その際、個人が国家間の外交交渉によることなく、外国に対して過去の戦争被害につき損害賠償を求めることができるという権利を是認することは、たとえそれが個別の一般市民法的な正義に合致するとしても、国家間、民族間、各地域における平和と安全を図るというより大きな枠組みで見れば、全体としては紛争の火種を残すに等しく、将来にわたる戦争を防止するという観点からして有害無益と考えざるを得ない。すなわち、右戦争被害に関して、当該個人の被害の存否、右被害が戦争によるものであるかどうか、その損害賠償額を幾らとすべきかということを個々人と外国国家との間で決するべき権利関係として認め、右個々人と外国との間の直接の交渉によって解決することになれば、いずれ本件のような訴訟が無数に提起されることになり、前記のような平和条約等によって国家間等においては賠償問題が決着したにもかかわらず、延々と個人と外国との間の紛争が係属し続けることにならざるを得ない。もとより、それが正義であるということは一つの見解として可能であろうが、国家間、民族間、各地域における平和と安全を図るというより大きな枠組みで見れば、戦争状態の解消後もなお大きな紛争の火種を延々と残し、賠償の存否、履行をめぐる権利としての戦争を正当化することにすらなりかねないであろうと考えざるを得ない。

そうであれば、たとえそれが個別の一般市民法的な正義に著しく反するものであるとしても、戦争が一般市民法的な正義からして最大の悪であり、一般市民法的な全体としての正義からすれば、何よりも再度戦争をしないということが最良最大の価値であるとすれば、右のような個人の外国に対する戦争被害に係る直接の損害賠償請求権は、従前の国際法上の取扱いと同様に、現時点においてもなお認められないとすべきであり、そのようにしない限り、何らかの形で世界が一つになるまでの間、世界の各国家、民族は、二一世紀においても、戦争の世紀というべき二〇世紀の場合と同様に、過去の不満、怨恨を原因とする無数の戦争を正当化し、国家、民族の消滅に至るまでの間これを更に繰り返し続けるほかないことになるであろうと恐れるものである。現在の戦争は「局地的限定戦争」ですら(武器対等であれば相互に)回復困難な打撃を容易に与えることができ、まして全面戦争となれば、その勝敗にかかわらず、国家、民族、人類の消滅にすらなりかねないものであることは論ずるまでもないのであって、そのような時代にあって古典的な「外交の延長としての戦争」論がどのように通用妥当するのか分からないものの、当裁判所としては、たとえ一般市民法的なレベルにおける正義に反しようとも、およそ再度の戦争の口実となり得るものは国際法上の権利として認められないとするのが相当と考えるものである。もとより、原告らも戦争を望むものではなく、右のような市民法的権利と正義が認められることこそが、平和の実現に寄与すると主張しているものと認められるが、当裁判所としては、現時点においてもなお、外国に対する個人の戦争被害についての回復に係る賠償問題は、国家間の政治的判断に基づく外交交渉によって解決するのが再度の戦争を回避し平和を維持する最良の、あるいはやむを得ない現実的な唯一の方法と考えるものであり、原告らの右主張にはにわかに賛同し得ないといわざるを得ないところである。以下、法的問題について検討する。

二  ヘーグ陸戦条約及びヘーグ陸戦規則並びに国際人道法について

公知の事実、前掲各証拠、前掲資料、及び弁論の全趣旨を総合すると、以下の事実関係及び法律関係が認められる。

1  日本は、明治四〇年(一九〇七年)一〇月一八日、ロシア皇帝ニコライ二世の提唱による第二回国際平和会議に参加し、同会議において改正案が審議され、修正の上採択された陸戦ノ法規慣例ニ関スル条約(以下「ヘーグ陸戦条約」という。)及びこれに附属する陸戦法規慣例ニ関スル規則(以下「ヘーグ陸戦規則」という。)に署名し、明治四四年(一九一一年)一一月六日これを批准し、同年一二月一三日、批准書を寄託し、明治四五年(一九一二年)一月一三日、同条約及び同規則を公布した。同条約及び同規則は、同年二月一二日、日本について発効した。なお、右ヘーグ陸戦条約、ヘーグ陸戦規則が採択された当時の中国は、清帝国の時代であって、中国はこれに署名していないが、一九一七年五月一〇日に中国(中華民国)はヘーグ陸戦条約を承認した。

2  ヘーグ陸戦条約三条は、「前記規則(ヘーグ陸戦規則)ノ条項ニ違反シタル交戦当事者ハ、損害アルトキハ、之カ賠償ノ責ヲ負フヘキモノトス。交戦当事者ハ、其ノ軍隊ヲ組成スル人員ノ一切ノ行為ニ付責任ヲ負フ。」と定め、ヘーグ陸戦規則は、六条で、捕虜の使役を禁じ、二三条で、不必要の苦痛を与うべき兵器、投与物その他の物質を使用することを禁じ、二五条で、防守されていない都市、村落、住宅又は建物に対する攻撃又は砲撃は、いかなる手段によっても禁止される旨を定め、四六条で、家の名誉及び権利、他人の生命、私有財産ならびに宗教の信仰及びその遵行はこれを尊重する旨を定めており、右規則の趣旨からして、本件加害行為はいずれも右規則の趣旨に反する行為といえる(仮にスパイ行為等によって死刑が許されるような捕虜の場合でも、これに対する拷問や生体実験などが許されないことは明らかといえる。)。

ちなみに、ヘーグ陸戦条約二条は、「第一条ニ掲ケタル規則(ヘーグ陸戦規則)及本条約ノ規定ハ、交戦国カ悉ク本条約ノ当事者ナルトキニ限、締約国間ニノミ之ヲ適用ス。」と定め、第二次世界大戦については、交戦国のすべてがヘーグ陸戦条約の締約国であったわけではない。しかし、同条約及び規則は、前記のとおり、その当時概ね国際慣習化していた内容を規定したものであり、遅くとも本件当時までには右規則の趣旨は国際慣習化していたと認められる。また、日中間については、前記1の経緯からして、本件当時における本件加害行為に関する限りその適用があったといえるかもしれない(曖昧にいうのは、前記一九三七年からの「日中戦争」を我が国では「日華事変」といい、正式な戦争とみなさず、中国も宣戦布告をしなかったので、国際法的意味では、戦争状態が成立していないものとされ、そのため、我が国が中国沿岸に設定した封鎖を、アメリカ合衆国は戦時封鎖とみなさず、封鎖線を突破する中立船に対して我が国が交戦国としての権利を行使することを否認したなどの事情があり、国際法的には一九四一年一二月のアメリカ合衆国の我が国に対する宣戦布告後に、蒋介石政府が我が国に宣戦布告をした時点、すなわち第二次世界大戦の勃発時と同時期という余地があるからである。そして、日本が枢軸国の一員として第二次世界大戦に参戦した同月八日(欧米では七日)以降については、チェコスロヴェキアがヘーグ陸戦条約に加わっていなかったので、ヘーグ陸戦条約第二条によって直接的には適用されないということになるはずであった。しかし、前記ニュルンベルク国際軍事裁判所は、ヘーグ陸戦条約はすべての文明国によって戦争の法規慣例を宣言したものとみなされているという理由で、その適用を認めたのであり、前記東京裁判の場合も同様であった。そのような国際法の適用と、各裁判の正当性については種々の議論があり得ようが、ここでは措くこととする。)。

なお、空爆に関しては、一九二三年に作成された「空戦に関する規則」案(これは条約として発効しているものではないが、戦時法改正委員会を構成する米英仏伊日等の主要諸国が署名した報告書の一部を構成するものであって、一般に権威あるものと認められていたようである。乙一〇)でも、空中爆撃は軍事目標に対して行われる場合についてのみ適法であるとしており(軍事目標主義。「普通人民を威嚇し、軍事的性質を有しない私有財産を破壊し若しくは毀損し、又は非戦闘員を損傷することを目的とする空中爆撃は、禁止する。」)、その第二四条は、爆撃の目標に関して「空中爆撃は、軍事的目標すなわちその破壊又は毀損が明らかに軍事的利益を交戦者に与えるような目標に対して行われた場合に限り、適法とする。」旨を定めており、本件当時までの間に、無差別空爆や、無防備都市への攻撃は国際法違反とされていたものといえる。

また、我が国は、一九四二年(昭和一七年)に「空襲の敵航空機搭乗員に関する件」により、敵航空機搭乗員の取扱いに関する布告をし、同年一〇月に「空襲軍律」を定め、軍律会議(いわゆる軍法会議)を設置し、無差別空爆を行った多くの敵航空機の搭乗員を戦時国際法違反として処刑した(甲一八三)が、右軍律会議自体は戦後においても違法とされていない。

日中戦争において、日本軍は中国の都市に対する空爆攻撃を各所で続けたようであり、特に一九四〇年から翌四一年にかけて、中国(国民政府)の当時の首都重慶に対してした無差別爆撃は、数万の市民の犠牲者を出したとされている。なお、第二次世界大戦に際しては、我が国やドイツの諸都市にも報復的壊滅的な絨毯爆撃がされ、一般市民の多くが殺傷され、都市が焦土化されたものであって、右爆撃中に明らかに国際法違反というべきものが多々あることは、周知の事柄といえる(広島、長崎への原爆投下も前記の国際法に違反するものというべきであろう。)。

したがって、本件加害行為は、それが戦争に付随するものであるからといって、許されるものではなく、いずれも、本件当時既に国際慣習法化していた右戦争規則等に違反するものであったというべきである。

(国際法の文献は膨大であり、当裁判所がそれを渉猟し尽くすことはもとより不可能であり、その一部が本件書証としても提出されているが、当裁判所は極めて限られた一般的文献を参照したにすぎないものではある。ただし、以下に述べる国際法や戦争や国際紛争に関わる当裁判所の記述は、本件の当事者も一般的教科書ないし体系書として援用している田畑茂二郎「国際法講義上・下」(有信堂)、藤田久一「国際法講義Ⅰ、Ⅱ」(東京大学出版)、山本草二「国際法(新版)」(有斐閣)の述べるところと合致しており、少なくとも何ら矛盾するものではなく、当裁判所が独自の見方を述べているわけではないものと信じている。ちなみに、後に繰り返し述べることになるが、第一次世界大戦以前には、国際法上は戦争は一般的に国家の合法行為とされていたのであり、第一次世界大戦の終了後、ある種類の戦争を違法とし、禁止しようとする「戦争違法観」が、初めて国際社会で意味あるものとして取り扱われるようになり、そのための国際的努力が種々されたものである。しかし、それも奏功したとは到底いえず、国際法上どのような戦争が違法であるのか必ずしも確立しないまま第二次世界大戦に至ったというのが実相というべきであり、それゆえ、前記ニュルンベルク国際軍事裁判所の裁判についても、東京裁判についても、その正当性を是認しない見解が表明されているのである。すなわち、本件に直接関わるかどうか疑問があるが、右裁判につき、「平和に対する犯罪」という新しい戦争犯罪が定義されたのである。しかし、当時の実定国際法からして、侵略戦争が国際法違反であり、かつ国際犯罪であることが確立していたか、侵略戦争に責任のある国家機関の個人責任を追及することができるか、国際軍事裁判所の構成が公正といえるか、などが問題となり、何が「自衛」かどうかは別として自衛戦争を除くすべての戦争が違法とされていたとしても、戦争が犯罪であることまでは実定国際法上明示されておらず、また、従来の国際法上の「主体」の観念からすれば、戦争は国家間の現象であって、責任は国家が負うべきであり、個人が責任を負うべきものではなく(そのような前例は皆無である。)、右各裁判の適否には言及しない(例えば、ナチスのホロコーストや、七三一部隊の人体実験などの非人道的残虐行為を是認することは到底できないというほかない。もっとも、原告らの主張のような事情によるものであろうと考えられるが、右人体実験については東京裁判において責任が問われなかったものである。)ものの、形式的には明らかに事後法による処罰であり、罪刑法定主義に反すると批判することが十分に可能であろうし、加えて、ニュルンベルク国際軍事裁判所の四人の裁判官も、東京裁判における一一人の裁判官も、すべて戦勝国の国民のみであり、検察官は戦勝国のみから選任されたものであって、そのような構成が公正かどうかにも問題があったというほかないであろう。もとより、前記のとおり、サンフランシスコ平和条約において我が国は右のような裁判を受容しており、当裁判所はここで右各裁判を批判する意図を全く有しないものであるが、「国際法」というものの性質上当然ないしやむを得ないものであるにせよ、何が「国際法」として確立しているのかということ自体極めて曖昧であり、しばしば、その時点における戦勝国や、大国、強国等に有利に(たとえ、それが結果として正義に適う場合であっても)解釈されたものが、「国際法」であるとして「解釈」され、通用されてしまう傾向があることを、「国際法」に関わる問題を考えるに際しては、常に念頭に置き十分に考慮すべきものと考えざるを得ないのである。加えて、現在においてすら、例えばイスラエルとパレスティナの問題、コソボにおけるアルバニア人とセルビア人の問題等々、二千年、あるいは数百年という民族間の長い確執等からして、何が「国際法」か、何が「法」や「正義」なのかを問うこと自体、果たしてどのような意味があるのかすら判然としないような、極めて深刻で解決困難な国際紛争が多々あるのである。通常のある国の「法」については、その裁判所を通じて、仮にそれが不当であったとしても、一つの有権的解釈と解決が示されることが可能であるが、国際司法裁判所等による実際上極めて限られた範囲の活動があることを除外して、こと「国際法」に関する限り、それが「国際法」であるということが、どのような意味を有するのかが曖昧な場合が少なくなく、それが国際法であるとしても、それによって現実にいかなる法的効果が生じるのか、それぞれ具体的かつ慎重に検討するほかないものである。もとより、当裁判所は、国際法がそのようなものであることに依拠して、原告らの権利行使を制限しようとするものではなく、本件において問題となる「国際慣習法化していたかどうか」を見るに際しては、「国際法」自体というものに、一国の「法」や、「法律」というものと著しく異なる性格が、歴史的にも、現時点においても、厳然として存することを十分に考慮するほかないと考えるのである。国際法の右のような性格をどのように評価し重視するかについては、当裁判所と原告らとの間に質的差異があるのかもしれないが、国際法が右のような性格を有するものであること自体については、一般論として広く通用している考え方と認められるのであって、原告らにおいても異論がないところとうかがわれる。以上を前提とした上で、本件につき当裁判所としては次のように判断する。)

3  本件における第一の問題は、本件加害行為が国際法上許されないものであることを前提とした上で、これに係る戦争被害について原告ら個人が我が国に対して直接損害賠償を求める権利を有するかどうか、それが、本件当時国際法上認められていた権利といえるかどうかである。すなわち、原告らの第一の主張は、ヘーグ陸戦条約三条はヘーグ陸戦規則違反の行為によって損害を被った被害者個人が交戦当事国に対して直接損害賠償請求することができるという権利を規定したものであり、同条約ないしこれを介して具現化された国際慣習法ないし国際人道法に基づいて、原告らは加害国である我が国に対して直接損害賠償を請求することができる旨主張するのである。

しかし、本件当時の国際法の通常の解釈からして、本件当時、個人が外国に対して戦争被害について直接損害賠償請求をし得る権利を有していたとは、本件の全証拠によっても容易に認められず、ヘーグ陸戦条約三条ないしこれが具現化されたというべき国際慣習法に関しても同様というほかない。そして、本件加害行為に関する限りその例外に当たるというに足りる事情を認めさせる的確な証拠も見当たらない。以下その理由を述べる。

4  まず、条約の解釈方法について見るに、昭和四四年(一九六九年)に採択された「条約法に関するウィーン条約」(以下「条約法条約」ということがある。)は、条約の解釈方法について、三一条で「1 条約は、文脈によりかつその趣旨及び目的に照らして与えられる用語の通常の意味に従い、誠実に解釈するものとする。2 条約の解釈上、文脈というときは、条約文(前文及び附属書を含む。)のほかに、次のものを含める。a 条約の締結に関連してすべての当事国の間でされた条約の関係合意 b 条約の締結に関連して当事国の一又は二以上が作成した文書であつてこれらの当事国以外の当事国が条約の関係文書として認めたもの3 文脈とともに、次のものを考慮する。a 条約の解釈又は適用につき当事国の間で後にされた合意 b 条約の適用につき後に生じた慣行であつて、条約の解釈についての当事国の合意を確立するもの 4 用語は、当事国がこれに特別の意味を与えることを意図していたと認められる場合には、当該特別の意味を有する。」と定め、三二条で「前条の規定の適用により得られた意味を確認するため又は次の場合における意味を決定するため、解釈の補足的な手段、特に条約の準備作業及び条約の締結の際の事情に依拠することができる。a 前条の規定による解釈によつては意味が曖昧又は不明確である場合 b 前条の規定による解釈により明らかに常識に反した又は不合理な結果がもたらされる場合」と定めている。

一般に、条約の解釈は、その条約の発効時における国際法上の条約解釈のための規則(以下「条約解釈規則」ということがある。)に従ってされるべきものであるところ、ヘーグ陸戦条約が日本について発効した明治四五年(一九一二年)ころにおける条約の解釈方法については、明文による条約解釈規則は存在しなかったが、条約法条約は、それまで精緻化されてきた条約解釈に関する国際慣習法を集大成したものと認められることなどからすれば、条約法条約に同条約は遡及しない旨の規定(四条)が存するとはいえ、ヘーグ陸戦条約の解釈も、条約法条約に定められた解釈方法に準じて行うのが相当である(このことについては、当事者双方の主張、その援用に係る学説等において異論がないところと認められる。)。

そこで、以下、ヘーグ陸戦条約三条の解釈に当たっては、右条約法条約三一条及び三二条の解釈方法に準じて、用語の通常の意味に照らした解釈、事後の実行に照らした解釈及び条約の起草過程に照らした解釈の順で検討を加えることとする。

5  ヘーグ陸戦条約及びヘーグ陸戦規則の趣旨及び目的は、その規定等に照らすと、同条約及び同規則によって陸戦における軍隊の遵守すべき事項を定め、もって「戦争ノ惨害」を軽減しようという点にあると認められるところ、ヘーグ陸戦条約三条は、ヘーグ陸戦規則に違反した国家の損害賠償責任を規定しているものの、賠償すべき相手方については明らかには規定しておらず、また、個人が国家に対して損害賠償を請求することを前提とした手続規定も存しない。

そして、本件当時までの間の国際法における伝統的な考え方によれば、国際法上の法主体性が認められるのは原則として国家(加えて国際組織)のみであり、個人は、国際法においてその権利、義務について規定され、かつ個人自身の名において国際的にその権利を主張し得る資格が与えられるときに、はじめて例外的に国際法上の法主体性が認められると解されており、個人が他国の国際違法行為によって損害を受けた場合について、当該個人は加害国の国際責任を追及するための国際請求を提出し得る主体としては認められず、当該個人の属する本国が、当該個人の事件を取り上げて外交保護権を行使することによって、自らの法益の侵害として引き受け、国家間関係に切り替えて相手国に国家責任を追及するものと解されていた(このような考え方は、国際法上「国家責任の法理」といわれている。)。

右のような伝統的ないし古典的な条約解釈規則や、国際法上の個人の地位からすれば、ヘーグ陸戦条約三条は、ヘーグ陸戦規則の遵守を実効化するため、同規則に違反した交戦国の国家責任の法理に基づく損害賠償責任を定めたものと認められ、同規則違反によって損害を被った個人が国家に対して直接損害賠償請求権を行使することを創設したものであるとまで認めることは著しく困難というほかない。

6  右の点に関する阿部浩己助教授作成の意見書(甲九三)及び本裁判における同助教授の証言(以下、右意見書と併せて「阿部意見」という。)は、ヘーグ陸戦条約三条は、その手続が保障されているかどうか、そのような国際慣習法を受容する国家があるかどうか、それが実行されたかどうかなどにかかわらず、個人の交戦当事国に対する損害賠償請求権を実体法的な「権利」として創設したものである旨主張する(同教授は「創設」との表現は用いてはいないが、それ以前には、前記「国家責任の法理」によって、国際法上そのような個人の損害賠償請求権が是認されていなかったことについては、阿部意見でも異論がないのであるから、そうであれば、阿部意見は右のように「創設」された旨を主張するものというべきである。)。そして、その起草過程における各国代表者らの意見、議論などからしても、また、原状回復や陳謝、責任者処罰などをも射程に入れた伝統的な用語である「reparation(又はrestitutionか)」が用いられず、「賠償(compensation)」との文言が使用されていることなどからしても、同条は賠償請求主体を個人としていると見るのが相当である、というのである。

しかし、まず、「compensation」という文言が使用されていることのみから直ちに用語の通常の意味に照らした解釈として個人に損害賠償請求権を付与したと見ることは困難というべきである(後述)が、いずれにしても、ヘーグ陸戦条約三条の右の用語についての指摘や、後記のオランダのカルスホーヴェン教授(テオ・ファン・ボーベン教授)の起草過程についての詳細な検討は、第二次世界大戦の終結後からすら四〇年、右起草時からすれば少なくとも八〇年以上という相当の年数を経た近年に発表されたものであって、第一次世界大戦よりも前に開催された第二回国際平和会議で採択されたヘーグ陸戦条約三条について、その当時における条約解釈規則や同条約についての締結国(の代表)の認識を推測するに際して、すなわち、その当時から本件当時までの間の現実に存在し、認識されていた「国際法」の内容を解釈するに際して、そのような極めて後にされた研究の成果が、どれほどの有効性を有するのか、それ自体多大の疑問があるというほかない。

すなわち、以下に見るように、右のような研究等は、第二次世界大戦終結後の「国際人道法」的発想の高まりと「戦争被害」の回復という視点から、ヘーグ陸戦条約三条を再検討することとしたものであり、そのような視点から見れば、ヘーグ陸戦条約三条の起草過程における各国代表らの意見、議論中に、個人を賠償請求の主体としていると解することが可能な発言や表現があることが判明したというにすぎないものと考えざるを得ない。何故ならば、一九〇七年(明治四〇年)に採択されたヘーグ陸戦条約三条ないしこれによって具現化し国際慣習法化していたとされる、原告らの主張するような内容に基づき、個人が相手方交戦当事国に対して「戦争被害」につき損害賠償を直接求め、その権利が是認されたという実例は、一九一〇年当時から本件当時までの間、その間に第一次世界大戦という空前絶後の戦争などがあったにもかかわらず、皆無ないしこれに近いものである。真実それが国際慣習法化していたのであれば、本件当時までの間に、少なくとも欧米においては多数の実績例(裁判例を含む)があるはずであるのに、そのような実例はほとんど見当たらないのである(原告らの主張や阿部意見が指摘する例が、右の実例といえるのか、少なくともその一部については疑問があるというべきであるが(後記12参照)、仮にそれが全部実例に当たるとしても、戦争被害の膨大さと対比して、余りにも僅少というほかなく、それをもって、戦争被害について個人が相手方交戦当事国に対して直接損害賠償を求める権利を有することが国際慣習法化していたとするのは、牽強付会といわざるを得ず、採用し難い。原告らの主張によれば、実例の有無、多寡にかかわらず、各国における国内法によって差異があってしかるべき事柄であり、我が国では憲法九八条二項を介して右のことが国際慣習法として受容されており(なお明治憲法下でも同様に受容されており)、かつ、現在では国家賠償法があるのであるから、我が国が本裁判において(原告らの主張を進めると、「仮に我が国のみが右国際慣習法を裁判で適用するものであったとしても」という趣旨となるが)右国際慣習法を適用することが可能である、というのである。しかし、そのような、いわば我が国のみで、しかも現時点において初めて適用されるようなものが、果たして「国際法」ないし「国際慣習法化していたもの」といえるのか、大いに疑問といわざるを得ないところである。)。

事案の性質上敢えて平明にいえば、国際慣習法化していたものは、交戦規則としてのヘーグ陸戦規則(東京裁判では、我が国の戦争指導者がこれによる刑事責任が問われたものであり、ニュルンベルク裁判の対象とされたのは、交戦規則違反ではなく、基本的にホロコーストに関わる刑事責任であったようである。)や、国家責任の法理に基づく、いわば「無過失責任」というべき交戦当事国の相手方国家に対する損害賠償責任であって、それも現実には戦後の平和条約等によって決着するであろうと観念されていたものというべきである。しかも、現在に至るまで、現実には敗戦国は戦勝国に対する損害賠償請求を常に放棄し、戦勝国が放棄しないときに、敗戦国が戦勝国に対して損害賠償をするという条約等が締結されて、古典的な国家責任の法理に基づく戦後処理がされているのである(その評価については当時から現在に至るまで種々議論があるものの、第二次世界大戦に関して、我が国もそのような平和条約等を締結して一応の決着をしているものである。ただし、ソ連については措くこととする。)。

ヘーグ陸戦条約三条が国際慣習法化していたという趣旨は、右の限度においてというべきであって、本件当時までの間に、個人が相手方交戦当事国に対して直接戦争被害について損害賠償を求める権利を有することまでが国際慣習法化していたと認定解釈することは到底困難というほかない。以下、問題となる点につき、更に検討する。

7  条約法条約三一条三項は、用語の通常の意味に照らした解釈に当たっては、文脈とともに、「条約の適用につき後に生じた慣行であつて、条約の解釈についての当事国の合意を確立するもの」を考慮すると定めており、ヘーグ陸戦条約三条の解釈に当たっても、条約に基づいて執られた当事国の事後の行動(事後の実行)を考慮することができると解されるので、この点について見るに、個人に対して賠償しなければならないということが国際慣習法上確立していたことを示す事例であるとか、ヘーグ陸戦条約三条を直接の根拠として個人の損害賠償請求を認容した事例であるなどとして、以下の事例が援用されることがある。しかし、その要旨と評価は以下のとおりである。

a まず、第一次世界大戦後、ヴェルサイユ条約によって設置された混合仲裁裁判所に直接個人が訴えを提起することができるとされたが、後記のとおり、これは同条約によって、例外的に個人が加害国に対して損害賠償請求権を行使することを認めたものであり、それをもって、直ちにそのような国際慣習法が確立したとまでは認められない。

b 昭和一二年(一九三七年)の本件に係る日本軍の南京攻略に際して、日本軍がアメリカのパナイ号を爆撃した事件について、その損害につき日米両政府の外交交渉によって我が国がアメリカに対して損害賠償をしたが、まさに国家責任の実行の一例というべき事例であって、これを日本政府がアメリカ政府を通してその乗員など被害者個人に対してその損害を賠償した事例とすることはできない。

c 昭和二〇年(一九四五年)四月、捕虜救恤品輸送のため、安導券の確約を受けた阿波丸が、アメリカ軍に違法に攻撃を受けて沈没し、約二〇〇〇名が死亡した事件につき、日本政府は、スイス政府を通して、アメリカ政府に対して損害賠償請求をしたが、これは、被害者個人が加害国に対して直接損害賠償を請求した事案ではなく、日本が外交保護権の行使として加害国であるアメリカに対して損害賠償を請求する際の算定基準として、被害者個人の損害額として一人当たり五万円から二〇万円までの四ランクに分けたとしても、日本政府がアメリカ政府に対してその国家責任を追及した一例と考えられ、これをもって、個人の請求権についての国際慣習法が確立していたことの証左とすることはできない。

d 昭和二七年(一九五二年)四月九日、ドイツ・ミュンスター行政控訴裁判所は、「原告の損害賠償請求権は、国内公法のみならず、国際法からも生じる。一九〇七年のヘーグ陸戦条約第三条により、国家は、自国の軍隊を組成する人員の一切の行為(ヘーグ陸戦規則の違反)につき責任を負う。文民の保護のため広範な文言が選択された第三条によれば、損害をもたらした者の過失は責任の要件ではない。第三条が軍隊構成員の行為に関わる占領国の絶対責任について規定しているということは、国際法の疑いなき原則である。国際法の定めるこの絶対責任の枠内で、国家は「無形的」損害についても賠償する義務を負う。」との判決をしたが、その事案は、ドイツ占領中のイギリス軍が使用する自動車によって重度の人身障害を受けたドイツ住民が、ドイツ当局に損害賠償を求めたものであって、加害国とされるイギリス政府に対する請求ではなかった。

e 平成九年(一九九七年)一一月五日、ドイツのボン地方裁判所は、「侵略者の責任は、既に両世界大戦の間に国際法の要素になった。捕虜と占領地の一般住民を殺害したり奴隷化したりしてはならないという原則も国際法の一般規則に属しているということについて意見が一致している。この一般原則は、一九〇七年一〇月一八日の陸戦の法規慣例に関するヘーグ第四条約にも表現されている。ドイツ帝国は、ヘーグ第四条約を一九一九年一〇月七日に批准したので、その規則を遵守しなければならなかった。この条約の附属書五二条によると、占領地の住民への課役は占領軍の需要のためにするのでなければ要求することができないし、住民が母国に対する戦闘行為に従事する義務も含めてはならない。その上、四六条によると、住民の名誉、生命、信仰・宗教は尊重されなくてはならない。したがって、交戦中のドイツ帝国は、ユダヤ系住民を軍事工場で殲滅を目的として非人間的条件下で強制労働させることも禁じられていた」旨を述べ、さらに、ヘーグ陸戦条約が相互主義の下で損害賠償責任を課しているわけではないこと、連邦憲法二五条によってヘーグ陸戦条約が国内法化されていること、しかも同条約の効力順位が法律よりも上位におかれていることを根拠として、ヘーグ陸戦条約により帝国公務員責任法の求める相互主義の適用を排除することも併せて判示し、ヘーグ陸戦規則違反の行為に起因する損害賠償責任が個人のために援用されることを明らかにした(甲一一四)。

右判決が個人の国家(ドイツ)に対する損害賠償請求権を認めた直接の根拠は国内法にあったが、その判決内容からして、ヘーグ陸戦条約三条が個人の国家に対する損害賠償請求権を認める根拠となり得るとする見解を示したものというべきである。

f 一九六〇年代初頭におけるコンゴでの内乱に関し、国連軍がベルギー人に対して被害を及ぼしたところ、国連の事務総長が、右行為は戦争法規に違反するものであったこと、その被害者は国連から損害賠償を受ける権利があるということを認め、何人かのベルギー人が直接国連から賠償を受けたところ、これをもって、ヘーグ陸戦条約三条の背景にある個人の請求権を肯定する原則が認められた事例であると主張されることがある(甲三二のカルスホーベン教授の別件訴訟における証人調書の三二頁から三五頁参照。ここでは「フリッツ・カルスホーヴェン」と表記されている。)が、この事例は、国連とPKO受入国との間に条約が結ばれたことによって個人の損害賠償の填補が図られた事例とうかがわれ(後記16の(二〇)参照)、右事例をもって、ヘーグ陸戦条約三条につき事後の実行があったものとすることは困難である。

g ユーゴスラビア紛争における行為について、国連総会の決議は、責任を負う者が処罰されるべきである、民族浄化の犠牲になった人々が賠償を受けるべきであると述べており、これをもって、ヘーグ陸戦条約三条の背景にある個人の請求権を肯定する原則が認められた事例であると主張されることがあるが、国連がヘーグ陸戦条約三条を根拠にして、いずれかの国の国内裁判所でクレイム(個人が被った被害の填補請求権)の処理を義務付けたとか、国連が義務付けられたという実例は見当たらない。

h ヘーグ陸戦条約三条をほぼそのままの形で再現した平成九年(一九九七年)の第一追加議定書九一条に注釈を加える赤十字国際委員会コンメンタールの注釈(弁論の全趣旨)が「賠償を受ける権利を有する者は、通常は、紛争当事国またはその国民である」と述べ、個人の賠償請求資絡をはっきりと認めているとの記述があると指摘されている。

しかし、そのような赤十字国際委員会の見解があったとしても、それをもって事後の実行があったと認めることはできないし、右注釈は、右記述に引き続き、「例外的な場合を除いて、紛争当事国の違法行為によって損害を受けた外国籍の人は、自ら、自国政府に訴えを行うべきであり、それによって当該政府が、違反を行った当事国に対してそれらの者の申立てを提出することとなろう。」としており、この記述からすると、赤十字国際委員会が、前記九一条について、個人が直接相手国に対する賠償請求の主体になるとの見解を採用したとは、にわかに認められないといわざるを得ない。

8  結局、事後の実行に関わる事例を見ても、右7のeの事例を除いては、ヘーグ陸戦条約三条が個人の国家に対する損害賠償請求権を認める根拠となり得ることを示すものはないに帰する(なお、右eの事例についても、損害賠償請求を認めた直接の根拠はドイツ国内法であった。甲一一四)。

そして、アメリカ合衆国第四巡回区控訴裁判所の平成四年(一九九二年)六月一六日判決(乙一四)は、米国のパナマ侵攻後の略奪及び暴動によってパナマの企業(ゴールドスター株式会社)等が受けた損害に関する訴訟につき、「国際条約は個人的に行使する権利を創設するものとは推定されない。条約が、個人の出訴権を付与する意思を全体として明示している場合に限り、自動執行性を有する(と解する)。ヘーグ陸戦条約は、個人が行使する訴権を明確に規定していない。さらに、我々は、同条約を全体として合理的に解釈しても、締約国がそのような権利を付与する意図があったという結論には達しない」と判示し、同国コロンビア特別区地方裁判所の平成六年(一九九四年)七月一日控訴審判決(乙一五)は、プリンツ(ナチスのホロコーストから逃れ生き残った米国人)対ドイツ連邦共和国事件につき、「実体的な行動規範を定め、特定の不正行為に対して賠償が支払われるべきものという規定があるだけの国際条約は、(必ずしも)個人の請求権を創設するものではない」「ヘーグ陸戦条約のいかなる条項も同条約の違反に対して個人に損害賠償請求権を付与することを示唆すらしていない」と判示したことが認められる。

原告らは、米国における右裁判につき、前者は、米国では、同国の主権免除を明確に放棄した限度においてのみ米国政府が訴訟の対象となるところ、ヘーグ陸戦条約三条の規定は、そのような意味で米国が明確に主権免除を放棄したものとは解されないとしたにすぎず、後者は、米国の連邦主権免除法による主権免除の一般的付与の例外になるかどうかの判断に関連して、ヘーグ陸戦条約三条の規定が問題となったものであり、同条項上の権利は当然に連邦主権免除法の例外になるとはいえないと判断したにすぎず、ヘーグ陸戦条約三条の趣旨を深く掘り下げてその効果について言及したものではなく、また、被告の訴訟適格につき米国のような訴訟上の障害がない我が国においては、直接関係のない論点である旨主張する。しかし、右に係る裁判書(乙一四、一五)からすれば、最終的には主権免除ということについて判断したものであるにせよ、米国における国際条約と個人の権利との関係についての見方を説示した上で、ヘーグ陸戦条約三条が個人に損害賠償請求権を付与したものといえるかについて判断し、これを付与したものといえないことをも理由として、右各原告の請求を棄却すべきものと判断したことは明らかであって、国際条約と個人の権利との関係、ヘーグ陸戦条約三条の趣旨について、米国においてどのように取り扱われているかを見る上では、十分に参照するに値するものと認められる。

9  ひるがえって、ヘーグ陸戦条約三条の起草過程について見る(乙二など)に、ヘーグ陸戦条約三条は、第二回国際平和会議の全体会合及び第二委員会で検討されたものであるところ、同委員会での検討の際、明治三二年(一八九九年)の第一回国際平和会議において採択されたヘーグ陸戦規則の条文の修正案に関し、ドイツ代表から、同規則違反に対する賠償について、

「第一条 この規則の条項に違反して中立の者を侵害した交戦当事者は、その者に対して生じた損害をその者に対して賠償する責任を負う(傍線は当裁判所によるものであるところ、実際に採択された第三条の文言は前記のとおりであって、「その者に対して」という文言が削除されている。その削除理由については定かでない。)。交戦当事者は、その軍隊を組成する人員の一切の行為に付き責任を負う。現金による即時の賠償が予定されていない場合において、交戦当事者が生じさせた損害及び支払うべき賠償額を決定することが、当面交戦行為と両立しないと交戦当事者が認めるときは、右決定を延期することができる。

第二条 右違反行為により交戦相手側を侵害したときは、賠償の問題は、和平の締結時に解決するものとする。」

旨の条文を新設することの提案があり、「一八九九年ヘーグ陸戦条約によれば、各国政府は、その軍隊に対し、同条約附属規則の規定に従った訓令を出す以外の義務を負わない。これらの規定が軍隊に対する命令の一部になることに鑑みれば、その違反行為は軍事刑罰法規により処断される。しかし、この刑事罰則だけでは、あらゆる個人の違反行為の予防措置とはならないことは明らかである。そこで、右規則違反による損害の賠償について検討することが必要であるが、国家の責任を過失責任の法理によらしめるとすれば、国家に、その管理・監督上の過失が認められない場合がほとんどであろうから、損害を受けた者は、政府に対し賠償を求めることができないし、違法行為を行った士官または兵士に対して、賠償を求めたとしても、多くの場合は賠償を得ることができないであろう。したがって、我々は、軍隊の構成員が行った規則違反による一切の不法行為責任は、その者の属する国の政府が負うべきであると考える。そして、その責任、損害の程度、賠償の支払方法の決定については、中立の者の場合は、交戦行為と両立する最も迅速な救済のための措置を講じるものとし、敵国の者の場合は、賠償の問題の解決を和平回復時まで延期することが必要不可欠である。」旨の提案説明がされた。

右提案に関しては、交戦国の市民と中立国の市民との間に区別を設けていた点について賛否が分かれ、第二回国際平和会議第二委員会第一小委員会議長は、ドイツの右提案に関して、「現在の規定に欠けている制裁条項を加えようという大変興味深いこの提案は、二つの部分からなっている。第一は、中立の者に関する部分であり、ある交戦当事国の軍隊を組成する者により中立の者に対し生ぜしめられた損害はその者に対して賠償してしかるべしとしている。そこには権利があり義務があるが、交戦相手側の者に対して生ぜしめられた損害については、いかなる権利も規定されていない。単に、交戦相手側の者に関する賠償の問題は、和平達成時に解決されるべきである旨述べられているのみである。」旨を述べた。

右につき、ロシア代表は、「我々は、先程この会議に提案を行った際、戦時における平和市民の利益を念頭に置いていたが、ドイツ提案はその同じ利益に合致するものであると考える。我々の提案は、一八九九年条約の実施に当たりこれら市民に課せられる苦痛を和らげることを目指すものであった。ドイツ提案は、この条約の違反によりこれら市民に対し生ずる損害を想定したものである。これら二つの提案の根底にある懸念は正当なものであり、それ自体として国際的合意の対象となってしかるべきであると考える。」などと述べた。

フランス代表は、「ドイツ修正案に見られる主張は、中立国の国民と侵略地または占領地に居住する交戦国の国民とを区別し、前者に有利な地位を与え、彼らにいわゆる中立の配当を認めようとするものである。個人のためにとられる保護措置は中立の者か交戦相手側の者かにより区別を設けることなく、すべての者に対し同様に適用されるべきであると考える。」などと述べた。

スイス代表は、ドイツ修正案に賛意を表明し、「ドイツ修正案が中立の者に許し難い特権を与えるというのは誤りである。ドイツ修正案が示している原則は、損害を受けたすべての個人に対し、敵国の国民であるか中立国の国民であるかを問わず適用可能である。これら二つのカテゴリーの被害者、すなわち権利保有者の間に設けられた唯一の区別は、賠償の支払に関するものであり、この点に関する両者間の違いは物事の性質そのものにある。中立の者に対する賠償の支払は、責任ある交戦国が被害者の国とは平時にあり、また、平和な関係を維持しており、両国はあらゆるケースを容易にかつ遅滞なく解決し得る状態にあるため、たいていの場合、即時に行い得るであろう。このような容易さないし可能性は、戦時という一大事により、交戦国同士の間では存在しない。賠償請求権は中立の者と同様各々の交戦国の者についても生ずるが、交戦国同士の間での賠償の支払は、和平を達成してからでなければ決定し実施することはできないであろう。」などと述べた。

これに対し、ドイツ代表は、「自分自身もできない最高の弁明をしていただいた。」と謝辞を述べた。

右につき、イギリス代表は、「ドイツ修正案においては、中立の者に対し特権的地位が与えられているが、これを受け入れることはできない。第一条が中立の者に対し、受けた損害の賠償を交戦当事者に要求する権利を与えているのに比べ、第二条では交戦相手側の者については賠償は和平の締結時に解決するとしている。したがって、交戦相手側の者にとっては、賠償は平和条約に盛り込まれる条件次第、交戦国の交渉の結果次第ということになる。私は、陸戦の法規慣例違反の被害者に対し交戦当事国が賠償をなすべき責任を否定するものではなく、英国はいかなる意味においてもこの責任を免れようとしているわけではない。」などと述べた。

ドイツ代表は、右提案が交戦国の市民と中立国の市民との間に区別を設けていることへの批判に対し、「両者の間に権利の違いを設ける意図はなく、右提案は、賠償の支払方法を規定するものにすぎない。」などと回答したが、結局、各国代表の発言の中には、一八九九年ヘーグ陸戦規則に違反する行為によって損害を被った個人が加害国に対して損害賠償請求権を有することを明確に肯定又は確認した発言はなかった。

以上の検討を経て、第二委員会が、ドイツ提案を「本規則の条項に違反する交戦当事者は、損害が生じたときは、損害賠償の責任を負う。交戦当事者は、その軍隊を組成する人員の一切の行為につき責任を負う。」との規定にまとめ、この規定が総会において全会一致で採択され、最終的に、規則中ではなく、条約の本文としてヘーグ陸戦条約三条として盛り込まれた。

10  右のような起草過程によれば、まず、ドイツ代表者が、ヘーグ陸戦規則に違反して中立の者を侵害した交戦当事国がその者に対して生じた損害を「その者に対して」賠償する責任を負うとの条項を付け加えることを提案したものであることからして、この発言のみを捉えれば、あたかもドイツ代表者がヘーグ陸戦規則違反の行為によって損害を被った個人が加害国に対して直接損害賠償請求権を行使することを認めることを意図していたかのようにも見える。しかし、その後の各国代表の関心は、専ら中立国の市民と交戦国の市民とを区別することの是非に向けられているのであって、各国代表の発言の中には、個人の加害国に対する損害賠償請求権を肯定あるいは否定することについての格別の発言は見当たらず、かえって、スイス代表において、「中立の者に対する賠償の支払は、責任ある交戦国が被害者の国とは平時にあり、また、平和な関係を維持しており、両国があらゆるケースを容易にかつ遅滞なく解決し得る状態にあるため、たいていの場合、即時に行い得るであろう。このような容易さないし可能性は戦時という一大事により、交戦国同士の間では存在しない。賠償請求権は中立の者と同様各々の交戦国の者についても生ずるが、交戦国同士の間での賠償の支払は、和平を達成してからでなければ決定し実施することはできないであろう。」という、国家間の賠償を前提とした発言をしたのに対し、ドイツ代表が謝辞を述べていることからすると、ドイツ代表の提案は、ヘーグ陸戦規則違反の行為によって損害を被った個人が最終的に救済されるべきことを意図していたとしても、それは、同規則違反の行為によって損害を与えた国家が被害者である個人が所属する国家に対して損害賠償の義務を負うという、少なくとも当時の国際法上当然とされていた国家責任の原則を踏み越えて、個人が加害国に対して直接損害賠償を請求することを許容することまでを意図していたものとは容易に認められない。

そして、第二委員会がまとめた条文及び最終的に採択されたヘーグ陸戦条約においては、当初ドイツ代表から提案のあった「その者に対して」との文言が削除されていることも併せ考えると(右削除の理由が明らかでないとしても)、前記のような各国代表が、ヘーグ陸戦条約三条の起草過程において、同条がヘーグ陸戦規則違反の行為によって損害を被った個人に加害国に対する損害賠償請求権を付与することを意図していたとはにわかに認められないものというほかない。

11  右の点に関して、前記ドイツ代表の提案はヘーグ陸戦規則違反の行為による被害者個人に請求権があることを大前提としながら、国家責任を認めようとしたものであって、これに対し各国代表からは全く異論が出なかったのみならず、議長、イギリス代表及びスイス代表の発言の中にも、中立国の市民ないし交戦国の市民にも賠償請求権が認められるべきことが述べられていた、と主張されることがある(原告らの主張であり、原告らが援用するカルスホーベン教授その他の見解である。)。

しかしながら、当時における一般国際法上、私人の行為を契機として国家に責任が発生するのは、当該行為を防止する「相当な注意」が国家によって払われなかったときとされているのに対して、ヘーグ陸戦条約三条は、右の一般国際法の枠を超えた内容になっており、交戦当事者ないし国は「其ノ軍隊ヲ組成スル人員ノ一切ノ行為」について責任を負うものとされ、軍隊構成員の行為は、どのような資格において行われたものであっても、すべてその国家に帰属するとされ、国家の側に「過失」があることも求められておらず、軍隊を構成する者が、いかなる資格においてであれ、陸戦法規違反を犯したならば、当該軍隊構成員の所属国に責任が帰属するとされているのである。実際のところ、戦場において頻発する蛮行が軍隊構成員の資格において行われたものなのかどうかについて截然と判別することは難しいところ、ヘーグ陸戦条約三条は、そのような場合に、資格の有無を問わず、専ら行為の実行者が軍隊の構成員であるかどうかに着目して、責任の帰属を決定し、極めて厳格な責任を課すことを規定したものといえる。

しかるに、そのような厳格な責任を国家が誰に対して負うのかが文言上明らかでないことが、問題を残し、議論を分けることになっているのであるが、少なくともその当時一般に、国際法は国家間の権利義務関係を規律するものとされ、したがって、国家責任の法理も国家と国家の間の法理とみなされており、個人に損害が発生した場合でも、国際法上は当該個人ではなく、その所属国の損害とみなされ、交戦当事国に対する損害賠償請求も当該国家のみが行い得るとされており、個人は、国際法上、所属国に完全に没入し、国際的平面には姿を現わさないと理解されていたものである。これが従前広範に見られた国際法上の一般的理解であり、このような考え方に立てば、ヘーグ陸戦条約三条も、国家間の賠償について定めた規定というべきことになる。

そして、一九五二年(昭和二七年)に赤十字国際委員会が刊行したジュネーヴ条約の解説においても、ヘーグ陸戦条約三条について、国家責任を規定した趣旨であると解していたことが認められる(乙一。「条約の違反行為に対するこの物質上の賠償に関し、被害者が、違反行為を行った者が属していた国に対して個人として訴訟を提起することは、少なくとも現存の法律制度の下においては、想像し難いことである」とされている。右に「物質上の賠償」とあるが、精神的肉体的苦痛等についての慰謝料を除外しているものとは読めず、伝統的な国際法理論を述べているにすぎないと解するのが相当である。)。

12  右は、前記阿部意見においても従来の一般的な国際法的理解として認めるところであり、その上で同助教授は、例えば、広瀬教授が「主権国家のみが国際法の主体であるとの観念が一般的であった第二次大戦前においても、交戦法規上では特別のレジームとして個人に対する権利の付与と義務の賦課が長期に亘って承認されてきたのである」との見解を採っているとして、これを援用し、ヘーグ陸戦条約が陸戦の法規慣例を扱うものである以上、その三条も、伝統的な国家責任法理一般によって彩られているというよりは、むしろ、国際法の一分野として特殊な法制度を発展させてきた交戦法規の法理を体現していると見るほうが適切であるというのであり、右「交戦法規」は国家と国家の関係のみならず、国家と個人の関係をも規律の対象に取り込み、その長い伝統の中で個人の権利の保障に資する豊かな足跡を描いてきたというのである。そして、国際法上、権利が個人に認められても、それを行使するための手続が用意されなければ、当該権利は観念のレベルにとどまってしまうが、そうした権利の存在をそのまま国内法に迎え入れる法制を採用している国では、裁判においてその実現をはかることが可能である、交戦法規の中では、パケット・ハバナ号事件に代表される戦時捕獲に関する慣習法規が、慣習法を受容する諸国の裁判所において頻繁に援用されてきたが、陸戦規則についても徴発や動産押収に係る賠償支払などにおいて、国際法が直接、国家(占領軍)と個人(住民)との関係に及び、各国の裁判を通じて個人の保護が図られてきた、例えば、一九一二年当時トルコ領であったイピロスにおいてギリシャ軍が行った徴発について、アテネ控訴裁判所は、ヘーグ陸戦規則四六条及び五三条に具現化された国際法規則が当該徴発に直接適用されるとの判断を示し、住民の請求を認容しているところ、ギリシャでは日本と同じように国際法が国内法化されており、そのような法制の下で陸戦規則の直接適用が可能とされたわけであるとし、また、第一次世界大戦時にドイツ軍が占領地において領収証の発給なく行った徴発の法的帰結が問題とされた事件において、ベルギー破棄院(一九二一年三月三日判決)、ポーランド最高裁判所(一九二一年二月一五日判決)、ハンガリー最高裁判所(一九二二年三月二二日決定)も、ヘーグ陸戦規則五二条の体現する国際法規則を直接適用して事案の処理に当たっているとし、さらに、第一次世界大戦中に中立国国籍を有する法人の財産がイギリスによって徴用された際の補償が問題となった事件において、イギリス控訴院も、イギリスの国内法としての効力を有する陸戦規則に依拠しながら、当該法人への補償支払を命じていると指摘し、加えて、シンガポール控訴院にも、第二次世界大戦時に押収された石油会社の財産処理について、陸戦規則を直接適用した例が見られ、日本でも、特に私有財産尊重原則に係る陸戦規則が裁判で直接適用可能性を認められており(認証無効確認請求事件・千葉地判昭和三一年四月一〇日行集七巻九八八頁、土地建物所有権取得確認及び所有権取得登記抹消並に引渡請求事件・東京地裁昭和四一年二月二八日下裁民集一七巻一〇八頁など)と指摘し、その上で、広瀬教授が述べるように、「文民の保護などの……国際法上の訴権は、国籍とは無関係に被害者個人に帰属していることは……歴史的沿革から明らかである」とし、こうした交戦法規の文脈に照らして見れば、ヘーグ陸戦条約三条に基づく賠償請求主体を個人と見ることに相当の合理性があることが分かり、少なくとも、交戦法規の中核をなすヘーグ陸戦条約三条が、国家間の関係のみを念頭において定められたという見解の維持は困難である、同条は、軍隊構成員による陸戦規則違反を治癒する態様として、締約国に「賠償(compensation)」の支払を要求しており、そこでは、原状回復や陳謝・責任者処罰などをも射程に入れた「reparation」という国家責任解除のための伝統的な用語は用いられていない、また同条は、行為時の資格のいかんにかかわらず軍隊構成員の一切の行為を国家に帰属させることで、極めて広範な責任帰属の範囲を設定してもいる、そのいずれもが、ヘーグ陸戦条約三条の背後に、国家責任法理一般ではなく、個人の保護を念頭に入れた交戦法規の法理が控えていることを指し示している、というのである。

13  しかし、原告らの主張や阿部意見のとおり、ヘーグ陸戦条約が交戦規則としての性格を有すること、我が国が明治憲法下において既にこれを交戦規則として受容し、国内法としても受容していたとしても、そのことから直ちに、ヘーグ陸戦条約が個人の交戦当事国に対する直接の損害賠償請求権を規定ないし創設したものであるとまで認定することは到底困難というべきである。

阿部意見らが指摘するとおり、前記起草過程における各国代表の発言中に、ヘーグ陸戦規則違反の行為によって損害を被った個人に対して加害国は損害賠償責任がある旨を述べたものと解することができるものがあるとしても、全体としては、ドイツ代表の提案と同様のことを述べているものとうかがわれるのであって、前記のとおり、例えば、イギリス代表が「私は、陸戦の法規慣例違反の被害者に対し交戦当事国が賠償をすべき責任を否定するものではなく、英国はいかなる意味においてもこの責任を免れようとしているわけではない。」と述べ、スイス代表において、国家間の賠償を前提とする発言をする一方で、「ドイツ修正案が示している原則は、損害を受けたすべての個人に対し、敵国の国民であるか中立国の国民であるかを問わず適用可能である。」との、被害者個人に対する賠償を前提とするかのような発言をしており、そのことから、イギリス代表を含めた各国代表が、ヘーグ陸戦条約の起草過程で、ヘーグ陸戦規則違反の行為によって生じた個人の損害が填補されるべきことを意図していたことがうかがわれるということを是認しても、更にそれを越えて、右各国代表が、ヘーグ陸戦条約三条によって被害者個人に加害国に対する直接の損害賠償請求権を付与することまでを明確に意図していたものとまで到底認められないというべきである。

このことは、ドイツ代表の提案に対し、各国代表者間において、右提案が被害者個人が加害国に対して直接損害賠償を請求することを認める趣旨であるのかを問い、その是非をめぐって議論をしたという形跡が見当たらないことからも明らかである。何故ならば、仮に、被害者個人の加害国に対する損害賠償請求権を肯定するとすれば、それは従来の国際法上の伝統的な国家責任の原則を修正するものであるから、それをめぐって相当の議論が尽くされるはずであるし、そのような議論に加えて、仮に個人の損害賠償請求権を認めるというのであれば、加害国に個人に生じた損害のすべてを賠償すべき義務を負わせるのか、どのような手続でこれを実現するのかなどにつき、当然議論されるはずであるところ、そのような議論がされた痕跡が全く見当たらないからである。

そして、右12において原告らや阿部意見が援用する裁判例が、仮にヘーグ陸戦条約三条が戦争被害を受けた個人の交戦当事国に対する直接の損害賠償請求権を創設したものであり、それが国際慣習法化しているということに依拠して損害賠償請求を肯定した事例であるとしても、無数の戦争被害があるはずであることと対比すれば余りにも少ない実例というほかないのみならず、いずれも基本的に財産権の侵害に係る事例といわざるを得ない。しかし、およそ戦争被害というのであれば、少なくとも今世紀においては無辜の一般市民らが無数の人的被害を受けていることは疑いようのない事実であるから、仮にヘーグ陸戦条約三条が戦争被害を受けた個人の交戦当事国に対する直接の損害賠償請求権を創設し、そのことが国際慣習法化していたのであれば、右のような人的被害についても無数の損害賠償事例があるはずであるのに、そのような事例は、平成九年の前記7のeの裁判例(なお、前記のとおり、これも直接的にはドイツ国内法を根拠としたものである。)のほかには見当たらないのである。(なお、何故財産的被害に関する事例が多く、人的被害に関する事例がほとんどないのかについて考える(前記のとおり、一九五二年(昭和二七年)に赤十字国際委員会が刊行したジュネーヴ条約の解説においても、ヘーグ陸戦条約三条について、「条約の違反行為に対するこの物質上の賠償に関し」としているのである。)に、臆測にすぎないものの、およそ戦争は「法」よりも遙か以前から存在し、ひっきょう戦争が敵の殺傷、戦闘能力の粉砕を目的とするものである以上、戦闘員、非戦闘員を問わず人的損害が発生することは当然と観念されていたので、戦争による個別の人的損害について「法」に基づく損害賠償を求めるということは、およそ想定されていなかったからではないかと思われる。そして、そのような考え方が、まがりなりにも「国際法」が形成された際にも支配的な考え方となっており、そのまま少なくとも本件当時まで推移したのであり、全世界的規模で見れば現在においてすらそのような通念がなお支配的なように見える。後に、本件当時における中華民国民法の適用について検討するところとも関係するが、戦争は諸々の戦後問題を含めて市民法の論理とは全く相容れないものであり、極端にいえば、民法、民事訴訟法、裁判制度などというものが存在しないときにも戦争自体は発生するのであり、一般市民法における正義と戦争の正義とは、戦場における人道という点において共通することがあるにせよ、少なくとも戦後の損害賠償問題という限り、別個の論理によって支配されているものといわざるを得ない。)

14  以上のようなことを考え併せると、ヘーグ陸戦条約三条の起草過程における各国代表の発言の一部を捉えて、これをもって各国代表が戦争被害を受けた個々人に交戦当事国に対する直接の損害賠償請求権を付与することを明確に意識し、これを前提として議論していたことの証左とすることは到底困難であり、少なくとも、そのような議論の評価いかんにかかわらず、前記のとおりのその後の実情に鑑みれば、本件当時までの間に、ヘーグ陸戦条約三条が戦争被害を受けた個々人に交戦当事国に対する直接の損害賠償請求権を付与したものであり、それを前提として個人に右のような損害賠償請求権があるということが国際慣習法化していたとまでは到底認められないというほかない。加えて、国内における軍事行為に際しての損害についてすら賠償請求権の行使を容認していなかった(国家無答責)我が国が(なお、それが、原告らの主張のように訴訟手続上のものであったか、被告の主張のように権利に関わる実体法上ものであったかという議論につき、いずれが正しくとも)、ヘーグ陸戦条約三条が戦争被害を受けた個々人に交戦当事国に対する直接の損害賠償請求権を付与したものであると理解して、これを受容していたとも到底認められないというほかない(もっとも、国際慣習法化という観点からすれば、我が国の受容の有無は本件の結論を直接左右しないところであるが、前記のとおり、これを受容していたといえる外国も見当たらないのである。)。

なお、国際慣習法とは、通常、「法として認められた一般慣行の証拠としての国際慣習」(一九四五年国際司法裁判所規程三八条)をいうとされ、これが成立するためには、①諸国家の行為の積重ねを通じて一定の国際的慣行が成立していること(一般慣行)、②それを法的な義務として確信する諸国家の信念(法的確信)が存在することが必要であるとされている。そして、個人が国際法違反を理由に、加害国に対し、直接損害賠償を求め得るかに関しては、個人に係る請求であっても、これを国際的に提起する資格を持つのは国家であるという原則は、現在の国際慣習法においても維持されているとされているところである。

前記のとおり、第一次世界大戦後、ヴェルサイユ条約(正式には、「同盟及連合国卜独逸国トノ平和条約」)に基づき、混合仲裁裁判所が設置された。これは、条約に基づき設置された国際機関、国際裁判所であり、同条約は、交戦国の個人が敵国政府の押収・徴発等の措置によって被った損害について、損害賠償請求の訴えを彼らの本国政府の仲介を経ずして直接に混合仲裁裁判所に提起する能力を認め、裁判所がこの訴えを受理して査定した賠償額は被告政府を拘束すべきことを定めたものであり、個人が直接同裁判所に対して訴えを提起することができた。これは、個人に国際法上の権利主体性が認められた一つの事例であるが、むしろ、この例は、各国の同意の下に条約によって具体的に承認された場合に限り、初めて個人が国際法上の権利主体となり、国際機関その他の特別の国際制度による救済手続が存在する場合のみ、個人が国際法上の権利を行使できるという、例外的な場合についての一事例となることを示すものである。また、前記のとおり、パナイ号事件は、昭和一二年(一九三七年)一二月一二日に旧日本軍がアメリカ合衆国砲艦パナイ号ほかの艦船を爆撃したことに対し、日本国政府が、アメリカ合衆国政府に対し、約二二一ドルを支払ったという事例であり、阿波丸事件は、昭和二〇年(一九四五年)四月一日にアメリカ軍潜水艦が日本船籍の貨物船阿波丸を撃沈したことにつき、日本国政府とアメリカ合衆国政府の交渉の末、昭和二四年(一九四九年)に、日本国政府が阿波丸の撃沈から生じたアメリカ合衆国政府又はアメリカ国民に対するいかなる種類の請求権も日本国政府自身及び一切の関係日本国民のために放棄するとの協定により解決したという事例であって、いずれも、国家間において解決が図られた事例で、前記の伝統的な国際法の原則に基づいたものにほかならない。

15  以上に関して、原告らや阿部意見は、損害の救済の実現方法等について起草過程において議論がなくとも、ヘーグ陸戦条約は当然に国内法的効力を持つから、ヘーグ陸戦条約違反が主張される当該国家の国内法における手続法によってその救済が図られればよいのであって、損害の救済方法の実現方法等について起草過程において議論がないことは、被害者である個人から国家に対する損害賠償請求権を認めない根拠とはなり得ないという。

確かに、ヘーグ陸戦条約三条が個人の国家に対する損害賠償請求権を付与したものであるという権利の存在に関する事項と、損害賠償請求権の実現方法に関する規定が存しないという事項とは、論理的には別個の事柄であるが、その起草過程において個人の権利についての実現方法が何ら議論されていない(すなわち、個人の権利実現は各国の国内法に委ねるとの議論もされていない。)ということは、個人の請求権を付与したものであるとの解釈をとる上での看過し得ない障害となるというほかなく、この点に関する原告らの右主張は採用できない。

16  一部につき既に述べたところと重複し、おそらく前後が逆というべきであろうが、事案に鑑み、ここで、一般論としての国際法上の個人の地位や、国家の「クレイム」などについて更に検討しておくこととする(主として、小寺彰教授の意見書(乙九)によるものであるが、以下に述べる範囲では、原告らも一般論としては特に異存がないところとうかがわれる。)。

(一) 国際法は、本来的には国家間に妥当する法体系であり、条約であれ国際慣習法であれ、国際法上の規則は、第一義的には、国家間の権利及び義務を定めるものであり、この点は、国家が個人に対して一定の義務を負うことを規定する条約や国際慣習法の場合であっても同じである。例えば、条約において締約国国民が他方締約国において国際法の要求する保護・保障を受けるものとすることを規定するとき(日米通商航海条約二条)、この規定によって国際法の要求する保護・保障を受けるという便益は、双方の国民が他方締約国から相互に受けるが、条約上の権利及び義務を有するのは、条約を締結した国家であり、両国の国民が国際法上の権利を有するものではなく、条約が規定する他方締約国国民の保護・保障の要求が実施されない場合には、実際に被害を受けた個人ではなく、その個人が国民として属する締約国が他方締約国に対してその責任を追求することになる。すなわち、国際法上の規則によって便益を受け得るということと、国際法上権利をもつということとは、別の事柄というほかない。

右を義務という面から見ると、締約国は、一般的には、条約上の義務を、個人の便益を提供する義務が規定される場合も含めて、国内法の制定、条約をそのまま国内法とするなど、それぞれが適切と考える方法によってその実施を図ることとなり、右の方法については、憲法体制、関連する国内法を考慮して、締約国が課された義務を十全に実施できるように決定されることになる。すなわち、条約上の義務をどのように実施するかは、第一義的には締約国が決定するのである。ただし、条約当事国の措置が条約に違反することもあり得るから、権利者たる一締約国において、義務者たる他の締約国の行為が条約上の義務に違反すると考えると、前者が後者に対して行為の是正や賠償等を求める申立てをすることになり、両国の間で合意に達して問題が解決されることもあるが、解決されない場合には紛争に発展することになる。

(二) 以上が、条約によって設定される一般的な法律関係及びその原則的な実施過程であるが、それ以外に、条約によって、個人に権利が付与されることが皆無というわけではない。例えば「市民的及び政治的権利に関する国際規約」(国際人権B規約)は、自由権的基本権を保障するが、この条約には、選択議定書(「市民的及び政治的権利に関する国際規約の選択議定書」)が付加されており、選択議定書の締約国(選択議定書が適用されるためには、国際人権B規約に加入するという手続とは別個の加入手続が必要である。)によって国際人権B規約所載の自由権的基本権が侵害されたと主張する個人等は、自由権規約委員会に申立てをして、自由権規約委員会の救済手続を利用することができる。ここでは、個人が条約上の手続を利用して国際法の平面で国家と対峙する、すなわち国際法上の権利をもつと捉えることができる。しかし、このような特別の国際的な手続が備えられ、個人に権利が付与されるのは、現在までのところでは右人権条約等に限られており、極めて稀である。

(三) 右(二)のような場合について、個人が国際法上の権利をもつと判断することにつき現在ではほぼ異論がない。

そして、このような手続がない場合にも、個人が条約によって国際法上権利を享有するという学説が存在していないわけではない。すなわち、国際人権B規約は個人に権利があることを明文で規定しており(例えば、三条、五条等)、そうである以上、ある個人に管轄を及ぼしている国が国際人権B規約には加入しているが、選択議定書には加入していないという場合(我が国はこのような状況にある。)、当該個人が、選択議定書上の手続を利用することはできないとしても、当該個人に国際法上の権利が付与されていると見るべきだとする学説が昨今拡がってきている。この場合、個人の権利は、それが人権という権利の性質上、締約国がその意思のみによって本来的に放棄し得ない内実をもっていることがその根拠とされる。ただし、このように個人が国際法上権利をもつとされる場合も、その権利の内容が一義的に決まっているものではない。

(四) 国際法上個人が権利を享有し得ることを個人が国際法主体性をもつと表現することがあるが、「国際法上の主体性」の意義は第一義的には学説的な性格をもち、個人が国際法上の主体性をもつと判断したことからどのような効果を導くかは、各学説が国際法上の主体性にどのような意味を付与しているかに関わってくる。そして、国際法上の救済手続を個人が利用できる場合に、個人に国際法主体性を肯定するといっても、国際法の基本的な主体である国家と同様に個人が条約を締結して国際法形成に直接的に関与できることまで意味するものではない。その意味では、国家と個人が同一の権利義務を享受し得ることを示すものではなく、個人が、国際法上の救済手続を利用できる地位にまで達すれば、国際法主体性を肯定してもよいとする学説が多いというにとどまる。したがって、個人について国際法主体性の議論がされる場合には、具体的な事例において個人がどのような資格をもつことを個人の国際法上の主体性という言い方で表現しようとしているかをはっきりさせなければならない。

(五) 本件のような戦争被害に関して、カールスホーベン教授は、ヘーグ陸戦条約三条によって発生するとされる個人の「権利」を、我が国の裁判所で援用し得るという文脈で個人の国際法主体性を主張している(甲三一の1、2、三二)。その意味では、へーグ陸戦条約三条が加害国である我が国の裁判所で個人が主張し得るような国際法上の権利を創設するかを問いさえすればよいが、次のとおり、このような文脈を離れて、個人が我が国の裁判所でヘーグ陸戦条約三条を根拠に権利を主張し得る場合も理論的には想定できないわけではない。

(六) 国内裁判所が条約の該当規定を根拠に当事者の主張を認める場合がある。このとき当該条約規定が自動執行性をもつ(self-executing)、又は直接適用可能性(direct applicability)をもつといわれる。これには、①条約を実施する上で、条約当事国の国内憲法体制が条約に国内法としての地位を与え、その上で一定の基準を満たす条約規定に裁判当事者の主張の根拠たり得ることを認めた場合と、②条約それ自身が、特定の条約規定に当事国の国内法の効力を与え、当事国内の裁判所で裁判当事者の主張の根拠たることを要求する場合とがある。前記小寺教授は、①の効力を自動執行性、②の効力を直接適用可能性と呼んで、①と②を明確に区別することとしているが、従来は①と②を混交する学説も多く、右のような用法で使うことが一般化しているわけではない。以下、右区別によって述べる。

(七) 自動執行性は、直接適用可能性のない条約規定についての属性であり、その有無の決定は、完全に各当事国に委ねられる。どのような条約規定に自動執行性を与えるか、その基準は国ごとに異なってよく、当然、一つの条約規定が、ある国では自動執行性をもち、他の国では自動執行性をもたないということが起こる。これは、前記のとおり、条約上の義務は各国がその憲法体制等を考慮して自ら決めるためであり、ある国は、条約上の義務を履行するためにその条約に自動執行性を与え、また他の国は、そのような措置をとらないということが起こり得るからである。したがって、国際法は、直接適用可能性をもたない条約規定が自動執行性をもつか、もたないかということには関心は持たず、専らそれぞれの条約当事国がその条約上の義務を実施するかどうかだけを問題にする。我が国の裁判所でも、国際法、特に条約の援用可能性が問題になることがあるが、これは本意見書でいう国際法、特に条約の自動執行性の有無についてであり、シベリア長期抑留等補償請求事件の控訴審判決(東京高等裁判所平成五年三月五日判決)は、「国際法の国内適用可能性」を「国際法を直接適用して結論を導くことが可能であるかどうか」と定義しており、右の「国際法の国内適用可能性」が自動執行性の意味であることを示している。

(八) 一方、直接適用可能性は条約規定の国際法上の属性であり、直接適用可能性がある条約規定については、国際法上、条約当事国は、それを国内裁判所で裁判基準として採用しなければならず、当事国の国内裁判所でその援用可能性が否定されれば、条約義務違反の問題が生ずる。

常設国際司法裁判所において「ダンチッヒ裁判所の管轄権」事件で解釈が求められた「ダンチッヒとポーランドの間の鉄道職員に関する協定」(以下「鉄道職員協定」という。)や、ヨーロッパ共同体設立条約は、直接適用可能性が認められる条約である。もちろん、これらの条約についても、直接適用可能性は、個々の規定ごとに判断される。

すなわち、右「ダンチッヒ裁判所の管轄権」事件は、ポーランド鉄道局に移ったダンチッヒ鉄道職員が鉄道職員協定を根拠にポーランド鉄道局を相手どってダンチッヒ裁判所に訴えたことに関連して、国際連盟理事会が

「A 上記職員が、鉄道職員協定等に基づいて金銭上の請求をなし得るか。

B ダンチッヒ裁判所がこの種の訴訟について管轄権を有するか。

C ポーランド鉄道局は、ダンチッヒ裁判所へ応訴し、その判決を履行する義務があるか」

との点について常設国際司法裁判所の意見を求めたものであるが、条約の直接適用可能性に関連するのは右Aの論点であり、この点について、右裁判所は、「鉄道職員協定が、国際協定である以上、条約を結ぶことだけで、直接的に個人に権利義務を創設しえない。」としながら、他方、「国際協定の目的が、個人の権利及び義務を創設し、かつ国内裁判所で適用される一定の規則の採択だという可能性があることを争うことはできない。」とした。すなわち、右裁判所は、条約が直接適用可能性をもつ可能性を肯定した上で、その決定要因を締約国の意思(intention)としたものである。

しかし、この締約国の意思は、右裁判所によれば、協定の適用態様に留意して、協定の内容から確定されるものであり、協定内容とは、協定の文言(text)及び一般的趣旨(la teneur gen-eral)である。したがって、右裁判所は、協定の文言や趣旨から離れた締約国の内心の意思を問題にしたわけではなく、むしろ解釈の結果、条約がその直接適用可能性を当事国に義務付け得ることがあると述べたものである。右事件について、右裁判所は、鉄道職員協定の文言や規定の仕組み、また協定適用に関する状況として、ダンチッヒから鉄道職員がポーランドに移された時点で、鉄道職員協定が発効したことを根拠にして、鉄道職員協定の直接適用可能性を肯定した。なお、裁判所が根拠として挙げた鉄道職員協定六条(a)、(b)には、ポーランド鉄道局がダンチッヒからポーランド鉄道局に移る職員の権利等を承認することが規定されていた。

(九) 条約の直接適用可能性が確固とした形で承認されているものとして、ヨーロッパ共同体設立条約がある。ヨーロッパ共同体設立条約には、共同体理事会等が定立する規則について、直接適用可能性を明示的に規定するが(一八九条)、その点が明示されていない設立条約上の規定についても、共同体裁判所は、「基本条約の精神、構成、及び文言に照らして」国内裁判所が保護すべき権利を個人に与えると判断した(Van Gend en Loos事件・一九六三年)。

ここでいう基本条約の精神、構成とは、ヨーロッパ共同体が、通常の国際組織とは異なり、超国家性を備えていることをいう。ヨーロッパ共同体の超国家性は、様々な要素によって構成されているといわれるが、その中で等しく、重要な構成要素と位置付けられるものに、ヨーロッパ共同体と個人の直接性と呼ばれる属性がある。これはヨーロッパ共同体と個人の間には、共同体加盟国を媒介しないで直接的な法律関係が結ばれていることをいい、共同体設立条約の直接適用可能性は、まさに共同体設立条約についての直接性の表現である。また文言とは、条項が明白であり、自己完結していることやEC加盟国と個人との間に法的関係を創設していることを指す。ちなみに、右Van Gend en Loos事件で直接適用可能性が肯定されたヨーロッパ共同体設立条約一二条は、加盟国間の輸出入に関する関税・課徴金の新設及び引上げの禁止を規定している。

(一〇) このような鉄道職員やヨーロッパ共同体設立条約の例は、今日においても稀である。ビュルゲンタールは、この二例以外にも、ヨーロッパ人権保護条約(「人権及び基本的自由保護のための条約」)や米州人権条約について直接適用可能性の是非を検討したが、現時点ではこれら二つの人権条約の直接適用可能性を肯定できないとし、結局、直接適用可能性をもつ条約としては、右鉄道職員協定とヨーロッパ共同体設立条約の二例にとどまるとする。

しかし、「ダンチッヒ裁判所の管轄権」事件が述べるように、条約が直接適用可能性をもつことを条約によって決めることを、国際法上理論的に否定することはできない。

なお、条約が国内法上の効力をもたず、それゆえに自動執行性をもつことがないイギリスにおいては、ヨーロッパ共同体設立条約について、特別にヨーロッパ共同体法(European Com-minities Act)を制定し、ヨーロッパ共同体設立条約や規則等のEC派生法が、イギリスの国内裁判所で、個人が権利の根拠として援用できる、すなわち直接適用可能性をもつことを確保して、ヨーロッパ共同体設立条約上の直接適用可能性の義務を実施している。つまり、条約の直接適用可能性は、条約が国内法上の効力を一般的にもつかどうかとは別の属性である。

(一一) このような国内裁判所における条約の援用可能性の構造を前提にすれば、カールスホーベン教授の立論は、へーグ陸戦条約三条が、このような直接適用可能性を備えるものと見るべきだということである(ただし、当裁判所が結論としてこれを採用し難いとすることは、前記のとおりである。)。

(一二) 従前、ヘーグ陸戦条約三条の規定の意味については、第一に、①交戦国の陸戦規則違反の行為に起因する損害の賠償責任、②交戦国の軍隊構成員の行為に対する責任の二つの規則を規定すると見る見解と、国の軍隊構成員の行為に対する交戦国の賠償責任を規定すると見る見解の対立があり、また第二に、この規則が、陸戦規則を越えて、戦争法規一般に適用されるとする見解と、陸戦法規違反に限定されるとする見解との対立があるもの、軍隊構成員が公務遂行中に行った陸戦法規違反についての賠償責任を、へーグ陸戦条約三条が規定することについては異論はない。したがって、本件では、第一に、当該賠償責任が加害国の国内裁判所で追求できるか、すなわちへーグ陸戦条約三条が前記の直接適用可能性をもつものと解釈できるかが問われるべきことになる。

(一三) 条約の準備作業については、今世紀初頭の仲裁裁判でも触れられることがあり、一九二〇年代の常設国際司法裁判所の草創期の判決や勧告的意見でも、しばしば言及された。常設国際司法裁判所の判決や勧告的意見では、通常の意味による条約解釈を条約の準備作業によって覆すことを否定しながら、準備作業への言及を行う、つまり条約本文を上記のような方法で解釈し、それを準備作業によって裏付けるというものであった。このような点を総合的に考慮すると、条約の準備作業は、当時においては、条約本文を一般的に理解されるように解釈すべきだとする規則について、補助的な意味をもつものだったと捉えられる。つまり、本文だけで条約規定の意味が明らかなときにそれによって覆すことはないが、本文による条約の解釈を更に裏付けるもの、又は本文の意味が曖昧なときに、依拠できるものが準備作業だったのである。

(一四) 事後の実行については、二つの側面があることに注意を払うべきである。第一に、事後の実行が条約規定の意味を示す場合がある。条約を作成するときに、条約当事国が一定の意思をもっていたがゆえに、条約締結後に一の条約当事国が具体的な行為をとり、他の条約当事国もそれに倣う、又はそれを黙認したと見ることができる場合がある。この機能は、条約文が不明確な場合に意味をもつ。第二は、事後の実行が新たな国際慣習法を形成し、条約上の規律を変更又は補完することである。この場合の事後の実行は、直接的に条約の意味を示すものではなく、新たな国際法となることによって、現行法規の在処を示すものと捉えられる。事後の実行、ひいては国際慣習法がこのような機能をもち得るのは、条約が、強行規範である場合を除くと、国際慣習法と効力において同一であるためである。今世紀初頭においても、事後の実行がこのような機能をもち得たことを否定することはできない。

(一五) 国際法上は、実際に人的又は物的被害を受けた者と、法的に損害を被ったとみなされる者が一致するわけではない。国際法上、国の機関が実際に人的又は物的被害を受けた場合にそれを国の損害と観念することに問題はないが、その国民が他国の国際法義務違反の行為によって人的又は物的被害を被った場合には、国際法上は当該個人の所属国家の損害と考えられて、被害者個人ではなく、国が外交的保護権を行使してその損害に対する賠償を請求することができるとされる。これが国家責任の法理である。したがって、国際法上は、誰が実際に人的又は物的被害を被ったかと、誰が法的に損害を被ったかは、分けて考える必要がある。

国際法上、所属国民が他国の行為によって人的又は物的被害を被った場合には、国は実際には人的又は物的被害を被ってはいないにもかかわらず、その被害を自らの損害と構成される。この点は、常設国際司法裁判所におけるマブロマチス事件判決以来、国際法上議論の余地なく認められている点である。

その結果、賠償として受け取った金銭は、国際法上はあくまで請求国に対する支払とされるが、請求国の国内法上の措置として、それらの金銭が実際の被害者に支払われる場合も多い。このような場合は、結果的に加害国から実際の被害者個人に金銭が渡るが、請求国が賠償として得た金銭を実際の被害者に交付することは国際法上の義務ではない。

また、加害国と被害国が同意すれば、実際の被害者が直接に加害国に請求し、被害者個人が加害国から直接に金銭を受け取るような国際的な仕組みを採用することも可能である。これが前記ヴェルサイユ平和条約三〇四条によって設置された一一の混合仲裁裁判所(mixed arbitral tribunal)である。混合仲裁裁判所では、加害国、被害国から各一名、第三国から一名の計三名の裁判官が、加害国と被害国の合意した範囲の個人の被った被害の補償額について、被害者個人からの直接請求を受けて金額を判断し、それに従って加害国が金銭を支払うとされていたとのことである。

なお、混合仲裁裁判所以外にも、両紛争当事国の政府代表各一名に第三国代表一名を加えた三名の委員会を設置し、両国が提示した自国民の被害を審議・決定し、加害国政府が支払額を決定するという混合請求権委員会(mixed claim commission)方式によって、被害が填補される場合も多いとされている。

(一六) このような個人が被った被害の填補の請求は、国際法上は個人の「クレイム(claim)」とよばれる。クレイムは、一九五一年(昭和二六年)締結の前記サンフランシスコ平和条約等において「請求権」と訳されているが、一般国際法上は、個人が直接加害国に請求できる権利ではなく、あくまでも国家のみが請求できるにすぎないとされている。国家は、実際の被害に満たない金額を得てクレイムを処理することもできるし、更には一切賠償を得ずにクレイムを処理することもできるとされており、法的には、国がクレイムを処理すれば、クレイムは満足され消滅するとされている。ただし、混合仲裁裁判所や混合請求権委員会が設置される場合には、当該機関がクレイムに根拠があると認めたときには、それに見合う金額が支払われる。このような混合仲裁裁判所や混合請求権委員会の仕組みが作られるのは、国際法上、加害国と被害国の間に、このような仕組みによってクレイムを満足させようとの合意があるためである。

クレイムの発生原因が同時に加害国の国内法上、当該被害者に実体的な権利を付与する場合も想定されるが、これはあくまで各国国内法の問題であり、それが国際法上クレイムであることとは理論的には別の問題である。ちなみに、現在へーグで活動しているアメリカ・イラン請求権裁判所は、イラン又はアメリカに責任のあるクレイムを確定し、それに見合う金銭を被害者に対して支払うように命じる、混合仲裁裁判所であるが、その設立に当たってアメリカは、個人が国内裁判所の救済を受ける権利を喪失させるという手続をとった(道田信一郎「イラン・アメリカ商事紛争」『国際取引と法』(一九九〇年)三五三頁以下)。

我が国の外務省がサンフランシスコ平和条約によって外交保護権を放棄したといっているのは、法律的には、戦争によって間接的又は直接的に発生した日本国民のクレイムを放棄したという趣旨である。このようなクレイムの性格は、東京地方裁判所昭和三八年一二月七日判決(下級裁判所民事裁判例集一四巻二四三五頁。いわゆる原爆訴訟判決)や東京地方裁判所平成六年七月一五日判決(判例時報一五〇五号四六頁。いわゆる在日韓国人元日本軍属援護法訴訟第一審判決(戦傷病者戦没者遺族等援護法の附則二項のいわゆる戸籍条項が問題となったものである。なお、その第二審判決も同様である。)でも、指摘されているところである。

(一七) 国際法上は、国家の行為によって個人が受けた被害が当該加害国によって填補されることが想定されるが、個人の被害が単なるクレイムにとどまる限りは、その賠償を請求できるのは国家に限られ、個人が加害国に直接請求し得る権利性はない。もちろん、理論的には、発生したクレイムを加害国の国内法上の実体的な請求権に転化させることに国家が合意することは、国家間の合意によって混合仲裁裁判所等を設置してクレイムをそのフォーラムにおける権利に転化させることと同様に、可能である。クレイムをどのように処理するかは、専ら国家の権限に属するということである。

(一八) へーグ陸戦条約三条は、明文上は、国の機関である軍隊構成員の公務中の戦争法規違反に関する賠償責任を規定しており、国家責任法理の戦時における国家機関の行為への適用である。条約文言上も、加害国が賠償義務を負っていることだけを記しており、当時の条約の解釈規則に照らせば、国が被害者として加害国の賠償責任を追求できることは問題ないとして、条約文上に実際に被害を被った個人に関わる文言はなく、被害が個人に発生した場合にも、当該個人が直接加害国の国内裁判所でクレイムを請求するのが当該条約規定の意味だと解釈することはできない。つまり、一般的には、国が外国人に被害を与えたときの救済の仕組みが国家責任法理によって捉えられており、また条約上も被害者個人が権利を有することが明文上書き込まれていない以上、へーグ陸戦条約三条が加害国国内裁判所で実体的請求権を付与する趣旨だと解することはできない。

カールスホーベン教授が、へーグ陸戦条約三条が直接適用可能性があり、加害国国内法上実体的な金銭賠償請求権を生むと主張する根拠は、前記のへーグ陸戦条約三条の起草過程にある。へーグ陸戦条約三条の起草過程は、条約の準備作業に当たり、当時の条約解釈規律でも、二次的な重要性しか与えられないものと解されるが、同教授が述べるように、提案国のドイツ代表Gundel幕僚長の発言からは、へーグ陸戦条約三条の目的が戦争法規違反によって敵国人が被った被害を賠償することにあるといえ、この点は交渉に参加したロシア、フランス、スイスの各参加国の共通了解でもあることがうかがわれる。しかし、このような了解から、直ちに、へーグ陸戦条約三条が個人を損害賠償請求者とし、また、同条に直接適用可能性を与える趣旨であったと結論することはできない。

この結論については既に述べたが、なお付言すれば、他国国民に国際法に違反して被害を与えた場合に国家責任が発生し、クレイムの形で個人の被害を填補するという仕組みを、右のような共通了解が排除しているとする根拠はない。このような国家責任の仕組みによって、クレイムとして個人の被害に対処することであっても、右Gundel幕僚長の発言とは矛盾せず、へーグ陸戦条約三条の起草過程の議論から、陸戦法規違反によって敵国人又は個人が被った被害について、それをクレイムとして処理するのではなく、加害国裁判所で被害者に実体的な権利を付与する形で処理することが目指されていたとの解釈を導くことは困難である。右起草過程からは、国家の命令によって行った陸戦法規違反の行為のみならず、国家が直接命令していない軍隊構成員の行為に起因する被害についても、国家責任が発生し、その場合の個人の被害がクレイムと位置付けられるとすることにこそ、本条文の起草者の目的はあったと推論するのが相当である。仮に本条がなければ国家の直接命令なしに軍隊構成員が執った行為(例えば、本件加害行為中の原告Aに対する強姦行為)からは国家責任は発生せず、それに起因する個人被害はクレイムと位置付けられない可能性もあったからである。このような準備作業から得られる結論は、へーグ陸戦条約三条の通常の文言解釈から得られるところと同一である。

(一九) 従来から戦争は交戦国間で平和条約が締結されることによって終了し、戦時中に、戦争法違反の行為があったとしても、相互に殺戮や破壊を行うという戦争の性格上、へーグ陸戦条約三条を根拠とする損害賠償の支払は平和条約によって、又はそれ以降に行われた。この点は第一次世界大戦や第二次世界大戦においても同様である。混合仲裁裁判所を設置して、そこへの訴権を個人に与えることによって、被害者個人が直接加害国から金銭賠償を受けた例はあるが、国家責任の処理方法として、加害国及び被害国がそのような方式を選んだことによるにすぎない。

(二〇) また第二次大戦後の平和維持活動の例も挙げられる。国際連合平和維持活動(いわゆるPKO)においては、国際連合は国際法上の法人格をもつものとして、通常の戦争であれば国家、特に加害国の地位に立つものと捉えられる。平和維持活動の場合に、活動に参加する軍隊によって発生した被害を国連が填補するという仕組みが作られたこともある。この場合は、国際連合とPKO受入国との間に条約が結ばれ、条約上の義務として、国際連合がクレイムの処理を図ったり(例えば、コンゴにおける国際連合の法的地位に関する国際連合とコンゴ共和国との間の協定。一九六一年一一月二七日締結)、国際連合が一方的に任意にクレイムの処理を図ったにすぎない。前記のとおり、国際連合が、ヘーグ陸戦条約三条を根拠にして、いずれかの国の国内裁判所でクレイムの処理をすることが義務付けられた例はない。

17  さらに、事案に鑑み、原告らが援用する二つの報告書について言及する。

(一) 原告らは、オランダの前記カルスホーベン教授(テオ・ファン・ボーベン教授)の国連最終報告書(甲一)を根拠に、今日では国際人権法違反行為による被害者は加害責任を負う国家に対して被害回復を受ける権利を有する旨主張する(少なくとも、従前そのように主張していた。)。

しかし、右報告書は、国際連合差別防止・少数者保護小委員会からの「人権と基本的自由の重大な侵害の被害者が原状回復、賠償及び更生を受ける権利に関連して、基本的な原則と指針を発展させる可能性を探るように要請された」ことに対する報告であり、報告者自身「この最終報告書でようやく一連の基本的な原則と指針を提案することができたが、これらを国連やその他のすべての関係機関が受け入れてくれることを希望する」と述べており、その内容が国際法上確立した考え方でないことを自認している。そして、同報告書三章の「国家責任」の項においては、「伝統的な国際法によっては、加害国は国家間レベルにおいて被害国に対してその行為の責任を負う。……伝統的な国際法によっては、損害を受けた主体は、その個人あるいは個人集団でもなく、その個人又は個人集団が国民であるところの国家なのである。この点において、国家は加害国から損害賠償を請求することができるが、被害者自身は、国際的な請求を持ち出す立場にない。」として、国際法の一般原則に則した国家責任の法理を述べ、国際法のこの分野における通説的見解が、個人の国際法上の法主体性を肯定するものでないことを示している。

(二) 原告らは、スリランカのラディカ・クマラスワミ氏が国連人権委員会に提出した報告書(甲二。「人権委員会決議一九九四/四五による、女性に対する暴力とその原因及び結果に関する特別報告者〈ラディカ・クマラスワミ〉による報告書」。主として(専らというべきか)いわゆる従軍慰安婦問題についての我が国の責任を問うものである。)及びこれに対する国連人権委員会の決議に依拠して、個人の国際法上の法主体性は認められると主張する(少なくとも、そのように主張していたことがある。)。

しかし、いわゆる「慰安婦」問題に関して、右クマラスワミ報告書で展開されている法的見解も、報告者個人の見解にすぎないというほかなく、国連人権委員会の決議も、勧告としての域を出るものではなく、個人の国家に対する賠償義務を、それぞれの国内法を離れて国際法上確立したものであるとするものではない。加えて、右報告書は、そもそも国連人権委員会で採択されたものではないし、また、同委員会の決議も国連加盟国を法的に拘束するものではないというほかない。

なお、敢えて付言するに、当裁判所が本件において述べる「戦争被害」中に、右のいわゆる従軍慰安婦問題が含まれるかについては疑義があり、いずれにしても、その事案につき審理しているわけではないから、その賠償問題につき当裁判所は何ら言及しないものである。

(三) したがって、右各報告書は、戦争による人権侵害、その戦争被害の回復の在り方等を検討する上で、大いに参考とされるべきものであるとしても、へーグ陸戦条約三条が個人の国際法上の法主体性を定め、個人の交戦当事国に対する直接の損害賠償請求権を創設したものであり、それが本件当時までの間に国際慣習法化していたことを認定させるものとは到底認められず、かえって、そのような個人の権利がいまだ国際慣習法化していないことを示すものといわざるを得ない。

18  原告らや、原告らが援用する我が国の学者らの一部は、我が国が憲法九八条二項によって国際法を尊重し、可能な限りそれをそのまま受容する体制にあり、かつ、国家責任についても、国家賠償法施行までの間は、裁判制度上の理由によって事実上制限されていたものの、現行憲法の下に裁判制度が変革され、国家賠償法が施行されている現在では、我が国において、国際人権法的見地から、本件当時の日本軍の非人道的行為につき我が国の賠償責任を肯定するに何ら差し支えない状況となっている旨主張し、我が国以外の国でどのような実体法や裁判制度や国際法受容の体勢にあるかは、直接本件の結論を左右しないものである旨主張する。

原告らが、人権を擁護し、再度我が国が他国において非人道的な侵略行為や非人道的残虐行為に及ばないようにするため、右のように主張していることまでは容易に理解できるが、当裁判所としては、法律上及び事実上基本的な疑問があるといわざるを得ない。一部繰り返し述べることになるが、第一に、原告らの主張に係る損害は明らかに戦争被害である(原告らも補足主張しているように、原告Aに対する強姦行為につき若干の疑問があるが、いわゆる「南京虐殺」の一環としてされたものというべきであり、また、それが単に日本兵の個人的不埓行為としてされたものであるとすれば、我が国が賠償責任を負うこともない。ただし、へーグ陸戦条約三条を原告らの主張のように適用すれば別である。)から、少なくとも今世紀における戦争につき、個人の戦争被害が戦後の外国の賠償問題としてどのように取り扱われているのかを見なければ、右に係る現実の「国際法」が何であるのか、およそ分からないことになる。しかるに、外国が個人の戦争被害につき国家責任を認めて個人からの請求に対して損害賠償をしたという事例は、原告らが主張している事例を考慮しても、ほとんど皆無というほかないのであり、本件加害行為のような殺人、拷問、虐待、強姦等の個人の人的被害について、他国が直接個人に対して損害賠償をしたという事例は全く見当たらないのである(前記のとおり、ドイツは国内法によって処理しているのである。)。そうであれば、原告らのいう「国際法」はあるべき国際法であって、現存する国際法ではないといわざるを得ないところ、裁判所が採用することができる国際法は現存すると認められる国際法に限られるのであって、「国際法」である以上、当裁判所が独自に解釈する余地がないものである。

第二に、敢えていえば、少なくとも従前の「国際法」はいわばヨーロッパの論理に基づくものであり、欧米の植民地主義、植民地支配、アジア、アフリカ、中南米への進出等に際して、強国が有利に作り、強国間のみで有利に適用され、弱者には不利にしか適用されなかったものというほかない。へーグ陸戦条約三条も、そのような従前の国際法の色彩がないとはいえず、現に、その起草過程の議論に登場するのは、ヨーロッパやロシアの代表のみであり、それが適用された事例として原告らが示すのも概ねヨーロッパにおけるものばかりである。日露戦争で負けなかった我が国は、それを契機に、アジアではほぼ唯一の「力」のある国家として一躍国際舞台に登場し、へーグ陸戦条約に署名してこれを発効させたが、へーグ陸戦条約の存在がその後の現実の戦争について何らかの規制となったことなどないのではないかとすらと考えざるを得ないのである。すなわち、欧米も、ロシアも、それを真似た我が国も、アジアにおいて、ひたすら自国のみの「国益の確保」に腐心して、領土拡大、権益の獲得に邁進し続けたのであって、その際、被侵略者側の国家及びその国民の甚大な苦しみなど何ら考慮されなかったというのが、少なくとも第二次世界大戦の終結に至るまでのあらゆる国家の実相であり、ただ極めて僅かな国際法学者の研究室においてのみ、へーグ陸戦条約、へーグ陸戦規則のあることが明確に意識されていたにすぎないのでないかとすら考えざるを得ないのである(一八九九年の第一回国際平和会議及び一九〇七年の第二回国際平和会議において、他の紛争解決のための国際機関の設置等が合意され、それが間もなくして現実の国際的紛争解決に有効に機能したという事例はある。しかし、それは直接戦争を問題としたものでもなく、へーグ陸戦条約とは全く別個の問題に関するものであり、もとよりアジアに関するものでもなく、また、へーグ陸戦条約二条に前記総加入条項があり、第一次世界大戦においては、イタリア等の三国が加入していないので、同条約は適用されないものとして取り扱われた(それに関する議論と対立があったようである。)のであり、その後国際連盟を通じて国際活動が活発にされたものの、実際には、ヨーロッパ、ロシアは混乱と確執を深めたのみであって、その間にヘーグ陸戦条約、へーグ陸戦規則が実質的に意識されることはほとんどなくなり、そのまま第二次世界大戦が始まってしまったというのが、「(国際法)学者」以外における実相のように思われる。へーグ陸戦条約三条の起草過程について初めて詳細な検討がされたのが、約八〇年後のカルスホーヴェン教授によるものである(原告らの主張)からしても、右のように考えざるを得ないことになるのである。)。そして、へーグ陸戦条約が国際的に実質的な意味で広くかつ明確に意識されるようになったのは、ニュルンベルク裁判、東京裁判等によって戦争犯罪を裁く際に、裁判規範が必要となり、交戦規則としてのヘーグ陸戦規則等が提示された時ではないかと思われるのである。そして、前記のとおり、右各裁判の当否については何ら言及しないが、右においても、「犯罪」の処罰規範としてヘーグ陸戦条約等が援用されたのであって、もとより、個人の戦争被害についての外国の損害賠償責任が論じられたわけでは全くない。

第三に、結論のみをいえば、現在においてすら、世界には前記のような歴史的にヨーロッパを中心として作られた「国際法」を受容しない国家や地域がなお多数あり、およそ国家責任の法理や、裁判制度などが存在しないか、あるいは無視され全く機能していない国家や、地域すら多数あるのであって、そのような全世界的な歴史と現状に関する全体状況からすれば、個人の戦争被害についての外国の損害賠償責任という国際法上の法律論は、市民法的正義からして国際的に解決されるべき重要な問題であるとしても、現在ようやく国連を中心としてそれに係る責任論が形成されようとしているにとどまり、いまだにその要件、内容が明確な「国際法」が存在しているとは到底認められないのである。

原告らの主張は、明らかに「歴史」と「正義」を重視していると考えられるにもかかわらず、以上のような国際法と戦争に関わる世界の歴史的事実と世界の実情を総体的に論じた上で、外国を戦地とした外国人の戦争被害につき、現時点において、たとえひとり我が国についてのみであろうとも、原告ら個人の我が国に対する直接の損害賠償責任が肯認されなければ、何故我が国のみが国際的正義と信義に反することになるのかについて十分な論証をしているものとは認められないというほかない(そのためには、本件加害行為のような外国戦地における非人道的残虐行為は、ひとり日本軍のみがしたこと、あるいは日本軍以外には極めて希なことであったことを論証する必要があるが、それは世界の歴史的事実に反するものと考えざるを得ない。)。

したがって、戦争被害について、「国際法」に基づく個人の我が国に対する直接の損害賠償責任を肯認しようとする原告らの主張は、性急に過ぎ、容易に採用することができないものといわざるを得ない。

19  以上の次第であるから、本件加害行為がいかに国際人道法・国際人権法に反する残虐なものであるとしても、少なくとも本件当時までに、へーグ陸戦規則等に違反する行為による戦争被害について個人が交戦当事国に対して直接損害賠償を求める権利があるということが国際慣習法化していたとは、本件の全証拠によっても到底認められないといわざるを得ない。

三  本件加害行為が法例一一条一項の「不法行為」に当たるか(侵略戦争ないし侵略行為による戦争被害と私法上の不法行為との間の関係)

1  原告らは、本件加害行為が中華民国民法の不法行為に該当し、法例一一条一項を介して、これが我が国に適用され、我が国は右による損害賠償義務を負う旨主張する。

しかし、前掲各証拠及び弁論の全趣旨によれば、法例は明治三一年に制定施行された法律であるところ、行政裁判所法及び旧民法が公布されたのは明治二三年であって、その法制上、公権力の行使による不法行為については損害賠償を求めることはできない(国家無答責)とされており、そのような国家無答責が採用された理由が定かでないとしても、右法例の制定当時、既に我が国において国家無答責の原理が採用されていたと見るのが相当であると解される。そうであれば、その原因が外国で発生した場合においても、それが公権力の行使によるものである限り、法例一一条一項の「不法行為」には当たらないものとして制定されたものと見るのが相当である。加えて、右明治三一年当時、少なくとも我が国が外国を戦地としてする戦争行為については、それが当該外国の「不法行為」に当たることをもって、法例一一条一項を介して我が国の損害賠償責任を肯定させ得るなどということは全く想定されていなかったものというほかない。

既に繰り返し述べたように、国際法上(それを国際私法というか、国際公法というかにかかわらず)、例えば、原告らの主張に係る日本軍の加害行為について、それが当時の中華民国民法における不法行為に該当することをもって、原告らが、我が国に対して直接個別の損害賠償を求めることができる権利を有するものであること自体、一般的に認められていなかったのであり(前記国際法上の主体性の問題)、本件当時、国際法上、戦争行為、軍事行動、これらに付随する各種の残虐行為、卑劣行為等についての損害賠償問題は、基本的に、戦後の国家間の平和条約の締結等によって処理するほかない外交問題、政治問題として観念されていたものであり、そのような国際法上の考え方は、我が国独自のものではなく、むしろ多くの国家が現在においても採用しているものであり、かつ、戦争状態の早期終結と再度の戦争の回避ということが市民法レベルにおける正義と公平を上回る正義であるとすれば、十分な合理性を有するものといわざるを得ないところである。以下、右を敷衍する。

2  外国に対する侵略行為及び侵略戦争が違法であること、許されないものであることは、本件当時においても疑う余地がないこととして国際的に承認されていた事柄といえる(ただし、少なくとも第二次世界大戦まで、場合によっては現在ですら、戦争は国家の合法行為であるという観念が支配的であったと考えられており、それゆえ、東京裁判の冒頭手続において、アメリカ軍人の弁護人は、我が国の戦争についてその指導者責任を問うことは許されず、ひいては右裁判自体許されない旨の弁論をしたのである。もっとも、前記のとおり、ポツダム宣言には戦争責任者を厳罰に処することが記載されており、我が国はこれを受諾し、また、サンフランシスコ平和条約においても、東京裁判を是認したのである。)。

したがって、侵略戦争ないし侵略行為をした国家は、相手方国家及びその国民に対して損害賠償をしなければならず、歴史的には、戦勝国が敗戦国に対して右につき損害賠償義務を課し、又は損害賠償請求権の行使を放棄するという形で決着するのが通常であり、その逆(戦勝国が敗戦国に対して損害賠償義務を負担すること、敗戦国が戦勝国に対する損害賠償請求権を放棄しないこと)はほとんどなく、現に我が国は、第二次世界大戦に敗戦し、連合国に対してポツダム宣言を受諾し、実質的にほぼ無条件で降伏をした際、本件のような加害行為に関して、戦争の責任と戦争犯罪人の処罰をも受け入れ、交戦当事国に対する損害賠償請求権を放棄したものである。

3  そして、原告らの各請求は、最終的には、日本法の要件を充足しなければ成立せず、また、その効力についても日本法の適用を受けるところ、本件加害行為は我が国の国家賠償法の成立前の行為であり、国家賠償法附則六項が「この法律施行前の行為に基づく損害については、なお従前の例による。」と定めていることから、同法が施行された昭和二二年一〇月二七日の前までの国家の公権力の行使に係る行為についての法理によるほかないというべきところ、公権力の行使に係る行為について国は損害賠償責任を負わないとするのが我が国の法制であったというべきである(最高裁判所昭和二五年四月一一日第三小法廷判決・裁判集民事三号二二五頁)。このような趣旨における国家無答責の法理は、実体法である私法ないし民法の適用自体を排除しているものであり、行政裁判所法及び旧民法が公布された明治二三年の時点で、公権力の行使については国は損害賠償責任を負わないという立法政策が確立していたものといわざるを得ない。

右の点に関して、原告らは、国家無答責の法理は、もともと国王の不可謬論に基づくものであり、王制下にない国家においては、「治者と被治者の自同性」「国家と法秩序の自同性」の考え方が根底にあるから、我が国の統治権に服しない外国人に対しては国家無答責の法理は妥当しないと主張する。

しかし、それは国家無答責の法理なるもの不合理性を指摘するものとしては理解できても、本件当時の我が国の法体系においては、軍隊の行為は被告の戦争行為の一作用として権力作用に属し、権力作用については民法の適用が排除されるとされていたことは疑う余地がないことである。しかも、それが戦争ないし軍事行為ないしこれに付随する行為であれば、被害者が日本人であろうと外国人であろうと、同じく国家無答責の対象としていたものであることも明らかというほかない(本件の全証拠によっても、本件当時における我が国の法体系がそれと異なるものであるとは認められない。)。

なお、原告らが外国人に対し国家無答責の法理が適用されない一事例として指摘するパネー号事件は、前記のとおり、一九三七年一二月一二日に旧日本軍がアメリカ合衆国砲艦パネー号他の艦船を爆撃したことに対し、日本政府が、アメリカ合衆国政府に対し、約二二一ドルを支払ったというもので、国家間において解決が図られた事例であって、被害者個人が民法の規定を根拠にして我が国に損害賠償を求めた事例ではないから、これをもって我が国が外国人に対して主権免責の原則を廃したものとすることはできない。

4  以上を更に敷衍すると次のとおりである(道垣内正人教授の意見書(乙一六。以下「道垣内意見」という。)に依拠する部分が多い。奥田安弘教授作成の意見書(甲一一五、二〇五、二〇七)及び同教授の本裁判における証言(以下、併せて「奥田意見」という。なお、甲五一ないし五五として、同教授の国際私法関係の論稿も提出されている。)並びに原告らの主張は、道垣内意見を強く非難するが、以下の部分に関する限り、有効な批判となっていないと考えざるを得ない。)。

原告らの主張及び奥田意見の骨子は、本件の我が国に対する損害賠償請求問題について、国際私法上はこれを通常の不法行為請求であると性質決定した上で、法例一一条により不法行為地である中国法を準拠法とすべきである、というのである。

しかし、国家の公権力行使に当たる公務員がその職務遂行上違法に私人に損害を与えたとされる場合の賠償責任の問題は、基本的に、国際私法によって準拠法を決定すべき私法的法律関係ではなく、公法的法律関係というべきであり、仮に右の一般論に例外を認めるべき場合があるとしても、少なくとも本件のような外国における我が国の戦争行為に起因する個人たる外国人の戦争被害については、我が国の国家賠償法の適用を受けるべき領域に含まれるというべきであって、その結果、国家賠償法の附則六項の定める、国家賠償法「施行前の行為に基づく損害については、なお従前の例による」ということが適用され、前記のとおり、本件加害行為当時の日本では国家無答責の原則が採られていたので、結局、我が国は賠償責任を負わないことになるといわざるを得ないのである。原告らの主張及び奥田意見は、我が国においてそのような考え方を採る者はほとんどいないし、これを採るべきことを論じる者の説明も破綻しているか、何ら根拠がない、というのであるが、以下の理由によって採用することができないというほかない。

元来、法例は、サヴィニー(Friedrich Carl von Savigny:1776−1861)の、国家と市民社会とは切り離すことができ(これにより国際私法は主権の衝突ではないと考えることができるようになる。)、市民社会には特定の国家法を超えた普遍的な価値に基づく私法があり、これはどこの国でも相互に適用可能なものであり、個人にその生活の本拠があるように、私法的法律関係にも「本拠(Sitz)」というべき法域があり、それを常に適用することによって、どこで裁判がなされても同じ結果がもたらされ得るという考え方(サヴィニー型国際私法)を前提とする、ローマ法の伝統、キリスト教など共通の価値観を基礎とするヨーロッパの「国際法的共同体」という思想を基礎とするものであるとされている。

このサヴィニー型国際私法観は、国民国家の誕生とともに法典編纂作業が始まった当時の大陸法諸国における国際私法立法に取り入れられていき、日本は、民法とともに作成された旧法例が法典論争の末葬り去られ、ドイツ法をモデルとして民法が起草し直されたのと並行して、国際私法についてもサヴィニーに忠実であったドイツの民法施行法の草案段階のもの(ゲープハルト草案)を参考にして起草された結果、サヴィニー型国際私法観を純粋に近い形で成文法化した、とされている(本件につき、右のようないわば古典的なサヴィニー型国際私法観に依拠して解決すべきか、という点を除いて、明治三一年制定の法例が右のような考え方と経緯で制定されたこと自体については、奥田意見も道垣内意見に異論がないようである。)。

右のように、私法的法律関係の「本拠」として、法律関係に最も密接に関係する地の法律を適用するというサヴィニー型国際私法の前提は、私法の領域では、法の互換性が高く、法律の所属する国家の利益に直接関係しないということにあるから、国家利益が直接に反映され、場合によっては処罰で裏打ちされることもある公法的な法律関係については、その選定を欠き、埒外の問題とされる。すなわち、そのような法律関係は、サヴィニー型国際私法における右の前提を欠くからである。

一般論として「私法」と「公法」とをどのように区分するのかについては様々な見解があるが、法例の適用の有無という具体的な主題を見る場合における「私法」と「公法」に関しては、私法とされれば国際私法に委ねられ、公法とされればそれぞれの法律の趣旨から地域的適用範囲が定められるという違いが生ずることを念頭に区分を考えるべきであり、既述のサヴィニー型国際私法の下では、法の国家利益との結び付きの強弱によるということになり、国家利益との結び付きが弱ければ私法であり、国家利益との結び付きが強ければ、その地域的適用範囲の問題は国際私法の埒外となり、当該法律の目的に沿って決せられることになる。このような区分の仕方では、「私法の公法化」が進んでいる現代にあっては、境界が極めて曖昧になるが、それでもこのような二分法をとるというのが現在の法の適用関係に関するルールであるというほかないし、少なくとも本件当時においては右のように考えられていたものというべきである。

奥田意見は、法例一一条が適用されるべきことを積極的に根拠付けるのではなく、国際私法の不適用を明確に根拠付けた見解は見当たらないから、本件では、原則に戻って法例一一条が適用されるべきであるというのであるが、私法的法律問題と公法的法律問題とでは法の適用に関するルールが異なっているという現状の下で、いずれが原則でいずれが例外ともいえないというべきである。奥田意見中に、「ある問題が公法的な性質のものであるか、それとも私法的な性質のものであるかは、法律関係の側から決定されるべきであり」とした上で、「法律関係の側から見るならば、国家賠償は、まさしく、違法な行為によって他人に損害を与えた者をしてその損害を賠償せしめる制度であって、社会共同生活において生じた損害の公平な分配を目的とするものという不法行為の定義に当てはまる。」との記述がある。しかし、国家賠償問題の歴史的経緯や実定法としての国家賠償法に表れた国家賠償問題に対する国家の強い利害関係に鑑みると、本件のように日本国の軍人が中国領土における戦争行為に伴い中国国民に損害を与えたことが違法であったか否か、それについて日本国が賠償責任を負うべきかどうかという問題は、「社会共同生活において生じた損害の公平な分配」に関わる問題とは到底いえず、市民社会のルールではなく、まさに、いわば「権力」対「人民」との関係というべきであって、それぞれの国家の主権の発動としての戦争行為の当否、許否等の判断が関わる、国家の維持、存亡等にすら影響のある問題でもあるというべきであるから、一般的には外国法の私法を適用することが考えられない分野(サヴィニー型国際私法の予定する普遍的な価値共同体が成立しない分野)に属するというべきである。

もとより、我が国の現行憲法上は、戦争について別の見方があり得るが、ここでは、国家の主権の発動としての外国における戦争行為に伴う外国人の損害についての賠償問題が、国際私法の分野に属し、法例が適用されるべきものであるというのが、本件当時及び現在における国際的な一般的理解であるかどうかについて見ているものであり、そのような国際的理解は、少なくとも本件当時までほとんど全く成立していなかったというべきであり、かつ、現在においても、そのような取扱いをしている国家は見当たらないことをいうものである。原告らや、阿部意見が掲げる事例中に、右のような取扱いを肯認させるものがあったとしても、膨大な戦争被害からすれば、余りにも僅かな例しかないことを示すのみである。一方、当該国家の外国における戦争行為に関わる個人の戦争被害につき、右外国の私法上の不法行為を適用して賠償責任を負うべきことを標榜している国家は全く見当たらないのである。すなわち、今後はどうあるべきかという点を除くとき、市民的ルールと最もかけ離れた戦争行為につき、市民法によって裁くのが相当であるという国際的な理解が成立していると認めさせるに足りる的確な証拠は全く見当たらないのである。

5  原告らは、国際慣習法としてのヘーグ陸戦条約三条が国内法的効力を有する結果、条約上の義務が国内法に優位するため、国家無答責は主張し得ないと主張する。しかし、ヘーグ陸戦条約三条の趣旨は前記のとおりであって、国家無答責という以前に、原告ら個人の我が国に対する直接の損害賠償請求権を根拠付けるものとは認められない。

6  原告らは、被告主張の国家無答責の法理につき、公法私法二元論を前提とした上で、公法関係については、行政裁判所の管轄に属し、司法裁判所の管轄に属さないとする訴訟上の救済手続の欠如を意味するにすぎず、実体法上の根拠を有するものではないとし、行政裁判所制度が廃止された日本国憲法の下では、右訴訟上の障害が除去されたため、国の賠償責任を認めることが可能となったと主張する。

しかし、そのような解釈が論理的には可能であり、通常の「国家賠償法」に係る損害賠償が基本的に「私法」の領域に属するとしても、国家賠償法の施行以前の公権力の行使に関わる国家の損害賠償責任について一般的にはそのように解釈されていないのであって、前記のとおり、行政裁判所制度が廃止された後の日本国憲法下の裁判においても、従来の「国家無答責の法理」を採用し民法の適用を排斥しており(前記最高裁判所昭和二五年四月一一日第三小法廷判決等)、我が国の当時の法体系として、公権力の行使に係る行為については、実体法である私法ないし民法の適用自体を否定していたものと解するのが一般的な理解である。そして、これによれば、国家賠償法附則六項が同法施行前の行為に基づく損害について「なお従前の例による」と定めている趣旨は、本件当時の公権力の行使に係る行為については国の損害賠償責任は認めないことをも含んでいるといわざるを得ないのである。すなわち、右の一般的理解とは、明治憲法下では、我が国は国家無答責の原則を採用し、国に対する損害賠償請求は一切認めないとしていたのを、第二次大戦後の現在の憲法一七条によって変更し、国及び地方公共団体の公務員の不法行為による賠償責任を明記し、これを受けて、国家賠償法が制定されたというべきである。このような経緯自体に国家賠償の問題をどのように取り扱うかという問題が国家政策と深く関係していることが表れており、ひいては、一般論として、国家賠償の問題は国際私法によって準拠法を定めるような問題ではなく、我が国における国家賠償責任は我が国のみが定めるべきことであり、それは国家賠償法の適用によってのみ定められる、というべきである。

したがって、本件加害行為について、現在の法体系においては国の賠償責任を認めることが可能になったとする原告らの主張は、以上のような国際的な一般的状況や、我が国における法例や国家賠償法についての一般的かつ通常の認識、解釈を前提とする限り、採用する余地がないといわざるを得ない。

7  なお、本件のような戦争ないし軍事行動に関する法律関係について、法例一一条が適用されるとすれば、不法行為地である当該外国の民法が適用されることになり、我が国の国家権力の発動としての右行為の違法性等について、我が国を単なる一私人として他国の私法で裁くことを意味することになるが、このような結論は、前記のとおり、諸外国の国家賠償制度の在り方や我が国の法体系の在り方に照らして、国際法上現時点においてもいまだ採用されていないところといわざるを得ず、原告らの主張は、市民法レベルにおける正義を至上とする一つの理想論であるにとどまり、それが国際法上確立した考え方であることを認めさせるに足りる的確な証拠はないというほかない。

主権国家がいかなる場合に責任を問われるかは、国家責任条約の作成という形で国連国際法委員会で長い時間をかけて議論をしている大問題であり、その国の同意があればともかく、そうでない限り、特に主権の発動行為(たとえ現時点において侵略戦争と評されるものであろうも、日中戦争がその当時の我が国の主権の発動行為であったことは明らかである。)については、国家が外国法に基づく法的責任を問われるということは、本件当時を含めて現在の主権国家システムでは考えられないところというべきである(奥田意見中の甲二〇五は、法例一一条の適用の可否を論じるに際して、右のような「国家責任条約の作成」に言及するのは、一般に「国家責任条文案」なるものが国家間の関係だけを規律するものであり、例えば損害賠償も「国家責任の解除」として加害国が被害国に対して支払うべものであるから、本件のように加害者は国であるが、被害者は私人であるというときには、国家責任条約(案)が適用されるはずがないので、この点に関する道垣内意見は、国際法上の問題と国内法の問題を混同しており、全くの誤りであると批判する。しかし、現時点においてすら、国際法上の議論が右のようなレベルにとどまるものであり、それゆえヘーグ陸戦条約三条の趣旨も前記のとおりといわざるを得ないのであるが、それと同時に、甲国家の乙国家に対する国家責任としての損害賠償責任を論じるに際して、いわば抽象的な乙国家それ自体の損害のみが問題とされ、乙国家の国民に関する損害が切り離されているとは容易に考えられないところであり、右「国家責任条約の作成」における議論は、そのような「国民個人の損害」をも含んだ前記クレイムに対応する国家の損害賠償責任が論じられているものとしか考えられず、そうであれば、甲国家の主権の発動としての戦争行為に関わる国家責任の問題は、基本的に国際私法の領域に属さず、外国の私法の適用によって解決することが当初から想定されていない分野であると見ることに際して、右国際法上の議論を参考とすることは何ら間違いではないというべきであろう。)。

以上を要するに、基本的には、「わが国の公務員が外国で公権力を行使することは、そもそも原則として認められないが、当該外国の同意がある場合や国際法上の根拠に基づいて、例外的に、わが国の公権力が外国で行使される事態も全く想定されないわけではない。その場合に、法例一一条一項によって、不法行為地の法律に基づく損害賠償請求がされ得るのか、それとも、わが国の国家賠償法が適用され得るのかという問題がある。外国に所在するわが国の営造物の設置又は管理の瑕疵に起因する外国人の被害についても同様の問題がある。法例は、国際的共通性の高い渉外的私法関係に適用されるものであるが、公権力の行使に起因する国家賠償の領域がそもそも法例の適用に馴染むといえるかについては、将来的にはともかく、現時点においては、肯定説をとることになお若干の躊躇を感じざるをえない。なお、在外外国人に対する不法行為に関する法例の適用が実際上重要な意味をもつのは、いわゆる戦後賠償問題であり、戦時中、わが国の軍人が海外で他国民に対して行った不法行為に関して、法例一一条一項が適用されるのか否かが議論となっている。」(宇賀克也教授『国家補償法』一九九七年版)という見方が、現時点において妥当な一般的見解と考えられる。本件は、右にいう「戦後賠償問題」の一つであるところ、奥田意見や原告らの主張は、右宇賀教授の見解が本件における原告らの主張を否定するものではないとするのであるが、右宇賀教授の見解が法例一一条一項の適用を肯定するものと見ることは著しく困難というべきであるし、仮に宇賀教授がこれを肯定するものであったとしても、当裁判所としては、前記及び以下に付言するような本件加害行為について、これを肯定することはできないものというほかない。

8  事案に鑑み更に付言するに、本件加害行為については、それがいかに非人道的なものであり、原告らにいかに甚大な被害を及ぼしたものであっても、以上のような帰結を採用するほかないというべきである。

前記のとおり、原告らは、国家間の外交交渉による賠償問題と併存して、国際私法に基づき、戦争被害を受けた個人が加害国家に対して直接その損害賠償を求めることができ、そうあるべきである旨を主張するが、私法は基本的に市民社会における契約の自由、当事者自治の原則に依拠するものであり(私法上の強行法規についてもそれは妥当する。甲二〇九。折茂豊「国際私法」)、一方、ある国家の戦争及び戦争行為中の、特に敵地における各種の戦闘行為及びこれにしばしば伴う本件加害行為のような非違行為は、およそ市民社会の論理とは相容れないものである。もとより、近代国家は、右戦争行為についても敵地の市民保護等を目的とする各種の軍律を規定しているが(原告らがヘーグ陸戦条約が「交戦規則」としての性質を有することを強調する趣旨も同旨であろうが)、その軍律違反につき軍法会議等で厳罰に処されているとしても(発覚しないことや、発覚しても訴追されない場合や、逆に拙速に判断される場合が少なくなかったのでないかと疑われるが、本件の結論を直接左右しないので、措くこととする。)、そのような軍律に反する非違行為がいずれの軍隊によっても繰り返されているのが歴史的現実であり、ひとたび「戦争」ということになれば、戦闘行為の目的が基本的に相手方の戦闘能力の破壊であり、窮極的には相手方の殲滅にあり、しかもそれが当面の英雄的行為ですらある以上、当該戦争目的が国家、民族、種族としての正義に適うかどうかにかかわらず、現実に戦闘に参加する軍隊及び軍人等によって、結果として、特に敵国人に対しておよそ市民的自由及び権利と相容れない各種の非人道的行為がされてしまうのが否定しようのない現実であり、特に第一次世界大戦以降の大規模な戦争や軍事行動は、それが正当化し得ない侵略行為ないし侵略戦争であろうと、「正義」のためのやむを得ない防衛戦争であろうと、その目的、理由のいかんにかかわらず、国家間ないし民族間(加えて、戦争が大きいほど戦争参加国も多数となる。第二次世界大戦における連合国は結局五〇か国以上となった。)の総力戦となり、使用される兵器が一般的かつ大量甚大な破壊能力を有することからしても、「前線」なるものや非戦闘員なるものも容易に判別し難く、戦争によって、軍隊のみならず、一般市民に対しても深刻な被害を大量に及ぼすのが通例である。そして、戦地が外国であれば、兵士か市民か容易に識別できない恐怖や、同胞を殺戮した敵に対する憎悪と復讐心など、誰にも抑制できず、相互に増幅させ合うほかないのがやむを得ない本能であるし、それが「聖戦」であればあるほど、いかなる非難や批判も役に立たないのである。

戦争は、繰り返し述べるように、「法」がなくても発生するものであるし、およそ近代の「国際法」「正義」の観念と関係なく発生し得るものであって、現時点においてさえ世界各地で戦争が存在するものである(事変といい、革命、内乱といい、地域紛争といい、テロ、ゲリラというも、国家として国際的に認知されていると否とにかかわらず、その多くは戦争行為ないし戦争状態にほかならない。)。戦争の原因は千差万別であり、単なる征服戦争のほか、宗教や民族間の憎悪その他諸々の要因があり、戦争に至るまでの経緯と、終結に至るまでの経緯も、それぞれ独自のものであり、その当時においてはもちろん、現時点において回顧的に分析してすら、正義がどちらにあったのか、ほとんど判定し難いものである。前記のとおり、もとより日中戦争は我が国による侵略行為にほかならないというべきであるが、前記ヘーグ陸戦条約三条が採択された一九〇七年以降においても、ひとり我が国のみならず、欧米ロシア、ソ連等の強国はもちろん、アジア、アフリカの大国や強国や、それ以外の中堅国や、従前のいわゆる「後進国」ないし発展途上国においても、隣国同士で、あるいは遙かに本国から離れた植民地等において、無数の侵略戦争、侵略行為が繰り返されていたのが現実である(第二次世界大戦終結後間もなくまでについては、植民地化や国家の併合や「固有の領土」宣言などによって、内政問題、内紛、内乱の鎮圧などとして「正当化」されていたことが多いが、あるべき人類普遍の道徳からすれば正当化できるようなものはほとんど全くなく、それぞれの時点における国際的力学のみによって当面の正当化が支えられているか、あるいは支えられていたにすぎないというのが、今後の世界の平和を考えるに際して最も現実的で、公平かつ安全に適う見方というべきであろう。もとより、何時の時代にも良心的な反戦思想というべき崇高な思想が確固として存在するが、それを真実理解しようとする国家と国民はほとんどなく、ひとたび民族、宗教、国家体制等の問題が介在すると、国際法を唱え、ヘーグ陸戦条約三条を採択したヨーロッパ、ロシア等においてさえ、右のような崇高な思想が戦争防止につき全く無力であったのが現実の歴史である。国連を中心として、国際的にある程度認知された人道、人権、正義の確保という名目で地域紛争に多国籍軍が介入する戦争行為がされるというのは、つい最近に極めて僅かな事例があるにすぎず、しかも、つい最近においてすら、そのような諸国ないし地域における、ここ数十年、あるいは、百年、二百年という最近の占領行為に由来する既得権的世界の分割を承諾しない国家や民族が多数存在し、戦争が繰り返されているのである。それらの戦争の正邪を判定し得るような「国際法」はいまだに何ら確立していないというべきであるところ、右のような「戦争」に伴う個別の行為を一国の私法をもってその違法性を裁くということが、原告らが主張するように、唯一正義に適う途といえるのか、たとえ他国がどのように受容するのかどうかにかかわらず、ひとり我が国のみが受容するものであるとしても、右を私法によって裁くべきことが唯一の正義であるといえるのか、本件の最大の問題はそこにあるのである。)。

以上を本件について見れば、本件加害行為による原告らの被害も深刻甚大なものであるが、我が国の中国における前記侵略行為等によって原告らと同様に、あるいはそれ以上に悲惨な被害を受けた中国国民が極めて多数いたはずであることも明らかである(おそらく、少なくとも二千万人以上という膨大な被害者があったであろう。前記南京虐殺の場合と同様に、あるいはそれ以上に、時間的空間的にどこまでの範囲を対象とするか、「被害者」をどのように定義するかという問題があろうし、当時の中国の国内情勢が前記のとおり著しく混乱していたこと(日本軍との戦いのほかに、蒋介石軍と共産党軍との間の激しい戦いが断続的にあり、かつ、我が国の傀儡的な中国政府や、伝統的な地方軍閥などがあって、広大な中国大陸で極めて複雑な内乱状態が暗に陽に続いていたのでないかと考えられ、それによる被害者も相当数あるはずである。なお、中国国民以外の被害者もかなりあったであろうと考えられる。)などから、現時点において日本軍による被害者につき正確に人口的な推計することは極めて困難という事情もあるであろうが、原告らがいう「一五年戦争」に係る一五年間について見れば、少なくとも数千万人の被害者がいたといえるものと推測される。)。

しかし、そのような戦争等につき、ヘーグ陸戦条約三条が国際慣習法化しているからという理由で個人に対する損害賠償を外国が裁判によって是認したという事例はほぼ皆無であると同時に、被害を受けた個人の所属する国の私法上の不法行為に該当するからといって外国が右個人に対する損害賠償を裁判によって認めたという事例もほぼ皆無である。

以上のような実情を考慮した上で、原告らが主張するように、本件を中華民国民法の規定する不法行為に基づく損害賠償請求権の行使として許容することが、果たして真実国際法上の正義と公平に適うものであるといえるかが問題となり得る。そのような考え方が広く確固として確立しているかといえば、前記のとおり国際法上そのように見ることができないのであるが、原告らの主張に係る解決方法が真実これからの日中両国民の友好に最も資するものであるかについても、なお疑問が残るといわざるを得ない。

9  すなわち、原告らの問題提起が重要であり、我が国が中国国民に及ぼした被害が甚大であることから敢えて付言するに、問題は、前記のような外国における戦争行為、侵略行為による大量かつ深刻甚大な被害につき、それがその国の私法上の不法行為に該当するからといって、個々の被害者が直接外国に対してその国の裁判所に損害賠償訴訟を提起して個別の賠償を求め得る権利を有するということが、人類普遍の道徳に適う唯一の方途であり、そうでなければ国際法的正義と信義則に反するといえるかどうかである。

右を肯定するとき、第一に、戦争終結後、交戦当事国の裁判所に無数の損害賠償請求訴訟が係属することになるはずであるが、前記のとおり、公知の事実、前掲各証拠及び弁論の全趣旨によれば、現実にはそのような事態は生じておらず、戦争を終結させる平和条約の締結によって、右個々の被害者の賠償問題についても交戦当事国間で定めるのが通常である。しかも、右のような損害賠償請求権は、法理論上敗戦国側も有するはずのものであるが、通常の場合敗戦国側においては敗戦に際して右請求権を放棄させられており、結局敗戦国側は損害賠償責任を負うのみとなっており、前記のとおり、ポツダム宣言を受諾した我が国も、実質的に見れば無条件で降伏することに伴い、我が国の被害についてはもちろん、個々の被害者の損害賠償請求権についても放棄させられているものである(ただし、原告らの主張によれば、個人の請求権を国家が放棄することは許されないから、論理的には、我が国の国民も交戦当事国である連合国に対して損害賠償請求権を有することになろう。しかし、日本国民が個人として外国に対して損害賠償請求権を行使しても、それを権利として受容する外国があるとは到底考えられないのであり、その当否にかかわらず、少なくともそのような取扱いが従前の伝統的な国際法からすれば当然の取扱いとされていたものである。)。

10  以上に加えて、公知の歴史的事実からして、そもそも、本件加害行為の遠因となっている我が国の中国への進出は、徳川幕府の末期に欧米列強の圧力によって我が国が開国させられ、いわゆる不平等条約を締結させられ、いわばその反動として、明治時代以降、当時の欧米の帝国主義、植民地主義の真似をし、富国強兵の合言葉の下に、外国に進出し、日清戦争、日露戦争、その他の諸々の軍事行為等を経て、台湾、朝鮮半島、中国大陸等々に諸々の占拠、権益等を確保し、これを拡大し続けたことに由来するものであり、現時点で回顧的に見れば、それが著しく正義に反する国家行為であり、被害を受けた外国及びその国民に対して諸々の点でなお払拭し切れない甚大な損害を及ぼしているものであるにせよ、我が国がそうせざるを得なかったという当時の国際的事情がなかったわけではなく(我が国と接した欧米等の列強国及びその代表は、我が国に対して概して友好的紳士的であったというべきであろうが、我が国は、隣国の中国における阿片戦争以来の欧米、ロシアのアジア各地への帝国主義的進出を見せ付けられていたものであり、小さな島国で、頼るべき真の友邦もないまま、独立を保持し、かつ不平等条約を撤廃し、国際社会においての地歩を築こうとしたものであり、それ自体としては何ら非難し得ないものである。)、また、結果的にアジア諸国の独立等を助長したという面もないわけではないというべきであろう。(もとより、当裁判所は、そのような事情をもって我が国のアジア諸国に対する侵略行為を正当化しようとするものではなく、そうであるからといって、軍事力を背景とする外国への進出が許されないこと、そのような事態が永続することはあり得ず、結局紛争当事国、その国民間に払拭し得ないような憎悪、不信を生じさせるのみであることは、少なくとも現時点においては明らかと考えるものである。しかし、本件において、原告らが主張するように法例を適用して原告らに対して損害賠償をしなければ、それが著しく正義に反するかを見るに際しては、「日中戦争」に至るまでの我が国及びそれを取り巻く世界の情勢を考慮することが許され、むしろ、そのような歴史的事情と前記のような現時点における世界の情勢とを総合的に考慮しなければ、原告らが主張するように法例を適用しないことが真実正義に反するとしかいえないのかが判断できないはずであるとの見地から、これを見ようとしているものである。)

我が国は、一九世紀半ばの開国以来ないし日清戦争前後ころ以来、一九四五年八月のポツダム宣言の受諾までの間、中国に対していわば戦勝国の立場にあり、右ポツダム宣言の受諾によってその立場が逆転したものであるが、国家間において右に係る賠償問題が決着させられるべきことは当然としても、原告らのような被害を受けた膨大な数の中国国民が、個別的に我が国において損害賠償請求をし得る実体法上の権利を有するということは、原理的には、除斥期間、消滅時効等の問題を別にすれば、本件のような損害賠償請求訴訟が日中両国の裁判所に無数に係属し得ることを意味する(もとより、これは、平和友好条約等によって国家が個人の損害賠償請求権まで放棄することは許されず、ある国家が他国に対する戦争に係る損害賠償を放棄しても、個人の外国に対する損害賠償請求権がなお存続するという原告らの主張と、相互主義とを前提としている。そのような原告らの主張・立論が国際法上通用するものであることについては疑問があるが、右立論は原理的には一つの正義を示すものではあるので、更に検討することとする。)。

しかし、それが仮に正義であるとしても、我が国の右降伏以来の五〇年間、いわゆる冷戦やその他の多くの戦争があったにせよ、また、前記の我が国の侵略行為に伴う国民同士間の相互不信等の悪感情が全く払拭されたとはいえないとしても、少なくとも日中間及びその周辺地域に関しては、朝鮮戦争、ヴェトナム戦争等の場合を除いて、その後概ね現実的に平和に推移しており、特に、日中間においては、昭和四七年(一九七二年)の日中共同声明以来、現実に実効性のある望ましい友好関係を樹立すべく双方の国家と国民が多大の努力をし、数々の分野において奏功しつつあるというべきである。そのように将来を見据えた多大の努力が両国及びその国民間でされている一方で、原告らの主張するような原理的には可能な本件当時の被害、すなわち五〇年以上も前の戦争に起因する被害について、日中両国の諸々の個人が提起する損害賠償請求が双方の裁判所に無数に係属するという事態は、明らかに異様というべきであり、明らかに国際的友誼と平和に適うものではなく、その結果は、両国民間の憎悪と不信を反復増長させるのみではないかと疑わざるを得ない。そのように一見正義であるかのような、しかし現実には明らかに異様な事態は、昭和二〇年の敗戦に至るまでの間国益と国民の保護を防衛するためと称して我が国が朝鮮半島、満州、中国に進出し、ついにはあからさまな侵略行為、侵略戦争にまで及んだのと同じような事態を、相互に再度招来しかねない危険性を残すにほかならないのではないかと強く疑わざるを得ない。

11  すなわち、それが市民法レベルにあってはいかに正義に適うとしても(原理的にそれを否定することはおよそ不可能であろう。)、従前の国際法が戦争につき、個人の戦争被害を含めて国家責任の法理に基づき平和条約等によって一切の賠償問題を解決しようとし(一括処理)、現実にも、当該戦争の正邪のいかんにかかわらず、諸国家がこれまでの無数の戦争についてそのように処理してきたのは、戦争が相手方の徹底的な殺戮と破壊を目的とするという、およそ正義や法と相容れない最大の悪であることに鑑み、市民法レベルでの正義がたとえ犠牲となろうとも、右のような最大の悪というべき戦争状態を早期に終結して再度の戦争を防止するためには、国家責任の法理によって一切の賠償問題を一括処理するほかないとの、より大きな理念に依拠しているものというべきである。全世界的に見て、戦争行為等による被害については、戦争中はもちろん、戦後においても、個人が個別に外国に対して訴訟を提起して損害賠償請求権を行使するという実例はほぼ皆無というべきであり(原告らが実例として指摘する事例が仮に右のような実例に該当するとしても、戦争行為による個人の被害が膨大な数であることと対比すれば、大海の一滴ともいうべき例外中の例外というべきである。)、それは、平時にあっては一人、二人殺しても殺人であるのに、大勢殺すと英雄となるという、およそ市民法レベルでは理不尽な戦争の論理が通用していることに由来するのであり、それがいかに理不尽であるとしても、少なくとも国際法上戦争というものがやむを得ない国家の合法行為として認知されているからであるとしかいえないものである(原告らが援用するヘーグ陸戦条約や、多くの「交戦規則」自体、およそ戦争が許されないということを前提としていない。)。

さらに、二〇世紀において、当該軍事行動を自ら侵略戦争ないし侵略行為であるとして正当化しようとした国家はなく、いずれも何らかの「正義」や「大義」を標榜して軍事行動をしているものである。もっとも、日中戦争については、前記のとおり、我が国は「暴支膺懲」などという、我が国の戦国時代のような、およそ近代国家のすることとは考えられないような「大義」しか主張し得なかったのであり、そのようなおよそ我が国にしか通用しない「大義」によって侵略行為を泥沼化し、何千万、あるいは億単位の中国国民に戦争被害を及ぼしたのであって、それによって中国国民の我が国に対する容易に解消し難い悪感情が残り続けることを恐れざるを得ないところである。のみならず、元来我が国が、一千数百年にわたり中国文化の恩恵を受けているにもかかわらず、また、日清戦争後、中国の革命派ないし改革派らからすら「同文」の国として中国近代化の参考とされるに至ったにもかかわらず、その期待と信頼を裏切り、中国に対して侵略行為を継続したことはおよそ正当化できないのであるが、一方、それ以前を見れば、我が国が長年にわたり超大国として帝国を築いていた中国からの独立を確保し続けようと腐心せざるを得ない状況にあったことも歴史的事実である。広い中国大陸には、国際的というべきか、国内的というべきか判然としないが、中国独自の数千年の極めて複雑で長い歴史があり、一方、我が国にも、中国には到底及ばないものではあるが、二千年というそれなりに長い国内的歴史があり、日中戦争に関しては、日中両国の右のような長い歴史からすれば、明治政府が成立してからさほど時間が経過していないなどという要因もあったものである。すなわち、本件加害行為の遠因となっている我が国の中国への進出には、そうせざるを得なかったという当時の国際的事情がなかったわけではなく、また、結果的に、我が国が例えば一九〇四年に超大国ロシアと敢えて戦争をして敗戦しなかったことや、欧米が植民地化していたアジアにおいて一九四〇年ころから数年間にせよ一時的に欧米を排除したことが、後日のアジア諸国の独立等を助長したという面もないわけではないというべきであろう(誤解を恐れて繰り返すが、それによって我が国が中国やアジア諸国を侵略したことを中国国民やアジアの人々に向かって正当化することは許されず、我が国の右のような侵略行為が結局当該紛争当事国及びその国民との間に払拭し得ないような憎悪、不信を生じさせて敗戦に至ったことは、今後なお我が国としては肝に銘じるべき事柄というべきである。)。

その上で、繰り返し述べるように、正義や理念を離れて現実に戦争が発生し、かつ、現実には敗戦国側からの戦勝国側に対する賠償しか問題とならないという性質のものである(戦後に国家間の外交交渉によって定められる右賠償等の問題は、歴史的には必ずしも正義に基づいていたわけではなく、むしろ勝者か敗者かによって定められたものである。中国について見れば、一八四〇年のアヘン戦争以来約一〇〇年間も諸外国との多くの戦争等に負け続け(ただし、中国は、前記のとおり、形式的には第一次世界大戦、第二次世界大戦における戦勝国であった。)、領土を奪われ、賠償金を支払わせられ続けていたものである。そのような措置は、戦後の条約の締結等によって形式的には「国際法」上いわば合法的に処理されたものではあるが、歴史的事実としては「正義」とは無関係にされていたものである。)以上、戦争に係る被害については、戦後の交戦当事国間における政治外交的交渉に基づく平和条約の締結等によって一切を決着させるべきである(もとより、右条約等において交戦当事国(現実には敗戦国)が、個人の直接的な損害賠償請求権を是認し、これを受容すれば、その履行問題が残るであろうが、そのような実例が皆無というべきことは前記のとおりである。)。それが再度の戦争を防止するやむを得ない現実的方途であり、おそらくそれが、国際法上ほぼ当然のこととして基本的に了解されていたので、個人の交戦当事国に対して直接損害賠償を求める権利までは認めなかったものであろうと臆測されるのである。前記のとおり、それに異を唱えるカルスホーヴェン教授等原告らの主張に係る研究成果や意見があるものの、本件の全証拠及び弁論の全趣旨からすれば、少なくとも一九八〇年ころまでは、前記のような考え方が国際法上の支配的考え方であったというほかないのである。

12  そして、前記のとおり、我が国は、第二次世界大戦に敗戦し、その際、本件のような加害行為、戦争被害に関して、戦争の責任と戦争犯罪人の処罰を受け入れることとし、かつ、交戦当事国に対する我が国の損害賠償請求権を放棄したものであり、現実に、「戦犯裁判」(例えば東京裁判)を甘受し、かつ、国家としてのアジア諸国に対する賠償問題を解決したのであり、なお未解決な賠償問題ないし戦後処理に関わる問題について、国家間の外交交渉によって解決しようとしているものである。

原告らは、我が国の戦後賠償等が、例えばドイツの場合と対比して極めて不十分なものであるというのであるが、大きく見て、現時点まで、ドイツは戦争行為について他国に対する賠償はしておらず、国内的解決としてナチスの犯罪的行為に由来して主としてユダヤ人に対する個人補償をしているものである。一方、我が国は、ナチスのような特定の民族、種族の大々的な殲滅行為(ホロコースト)を企図したことはないので、ドイツの場合のような趣旨での個人補償の問題は国内問題としてはほとんどないのである(もとより、我が国においても、思想統制、危険分子と見なされた者に対する残虐な弾圧という問題はあるのであるが、それもまた著しく正義に反するものであるにせよ、民主主義を標榜する国家においてすら、戦時にあっては大なり小なり一般的にされていたことであり、現時点においてすら、民主主義を標榜しながら、当該国家の国益や独善的な価値に反する思想や行為は許容しないという国家や社会体制や国民の「通念」が存在することは、周知のところというべきである。誤解を避けるため繰り返すが、右は、当裁判所の認識するところを述べているにとどまり、それをもって我が国における敗戦までの思想弾圧等を擁護しようとしているものでは全くない。)。しかし、我が国においては、前記の侵略戦争、侵略行為、種々の戦争犯罪によってアジア諸国に対して甚大な戦争被害を及ぼしたことから、当該国家(我が国の敗戦後成立した国家もある。)に対して賠償するという形で賠償問題を解決しようとしているものである。いわゆる「戦後補償」の問題に関しては、それぞれの国家の歴史と戦争の相手方とその被害態様等々を総合的に考察して対比しなければ、どちらが正しいとか、合理的なものであるとか、容易に断定できないものというべきである。この点については、もとより、当裁判所が判断すべきものではないが、我が国が採用している右のような解決方法は、少なくとも、従前の国際法上の戦争行為に関する賠償問題の解決方法としては通常のものであり、それ自体として不当なものとはいえない。

13  そうであれば、前記のような国際法上の解決方法は、元来理不尽な戦争の論理を一面助長するかのような方途ではあり、甚大な被害を受けた原告らや、その他の戦争被害者らをおそらく到底納得させ得ないものではあろうが、より広く長く大きく見れば、例えば、既に戦争状態が終結してから五〇年以上を経過しており、交戦当事国間で平和友好条約等が締結されているにもかかわらず、なお個々の被害者が敵国というべき交戦当事国に対して個別に無数の損害賠償請求を当該外国の裁判所に提起しているという明らかに異様というべき事態があり得るということと対比すれば、そのような個人の損害賠償の点を含めて前記のような平和条約の締結に係る外交問題、政治問題として一括して決着するほうが、結局は両国民間の友誼と国家間の平和と発展に適うはずであるというべきであろう。

すなわち、過去の戦争について、市民法的正義を貫徹させることよりも、戦争状態を早期に終結させ、将来にわたる両国民間の友誼と国家間の平和と友好関係を樹立し、何よりも再度の戦争を回避しようとすることのほうが、より大きな正義に適うとすれば、右のような伝統的な国際法上の解決方法は、合理性を有するものというべきである。

14  以上によって、当裁判所は、本件加害行為のように戦争時における外国軍隊ないしその軍人等が個人に及ぼした被害、すなわち戦争被害については、原則として戦後における国家間の政治、外交問題として解決すべきものであって、その限りにおいて、その個人が属する私法上の不法行為に基づいて外国に対して直接請求し得るものではなく、ひいては、外形的に見れば、本件加害行為がその当時における中華民国の民法等の不法行為に該当し、それにより原告らが我が国に対して損害賠償請求権を有することになるとしても、そのような戦争被害に係る我が国に対する損害賠償請求権は、本件当時までの間有効に支配していた伝統的な国際法からすれば、法例一一条を介して我が国に対して請求し得る権利には当たらない、すなわち、同条にいう「不法行為」に当たらないといわざるを得ないと判断するものである。すなわち、本件加害行為がいかに非人道的であり、それが原告らの主張に係る「国際人道法」「国際人権法」にいかに反するものであるかということを最大限考慮しても、本件当時における個人の戦争被害に係る国際法上及び我が国の法制上、原告ら個人が我が国に対して直接損害賠償を求める権利を有するという法律関係が認められないものといわざるを得ない。

四  まとめ

原告らは、被告の主張が「個人は国際法上原則として法主体性を有しない」という一般的・抽象的な議論に依拠して、本件につき原告ら個人の我が国に対する損害賠償請求権が認められないとしていることを非難し、本件で議論されるべきは、「国際法に違反して外国人に対して違法行為をした加害国家がある場合、被害者個人は、当該加害国家に対して、直接損害の回復を求める権利を有しないと断定できるのかどうか、とりわけ戦争という大量にかつ広範囲の権利侵害が頻発するような事態に対処する法的救済措置として、およそ個人による加害国家に対する請求が考えられないのかどうかという問題である。」旨主張する(原告らの一九九九年(平成一一年)二月一〇日付け準備書面五頁の「問題の所在」)。原告らの右問題提起自体は貴重であり、その趣旨は理解できないわけではなく、もとより、論理的には「およそ個人による加害国家に対する請求が考えられない」などということはあり得ない。

しかし、前記のとおり、当裁判所としては、一九世紀半ばから現在に至るまでの間の世界における無数の戦争とその戦争状態の終結の実情に鑑みて、とりわけ戦争というものが、まさに原告らの主張のとおり大量かつ広範囲に非人道的権利侵害を頻発させるものであるからこそ、巨視的に見て、原告らが主張するような個人の市民法的レベルにおける正義の実現は、かえって再度の戦争状態を招来し、再度非人道的権利侵害を頻発させるという危険性すら有するものであって、再度の戦争ないし戦争状態を極力回避しなければならないということが至上命題であり、人類全体のより大きな正義に適うものであるとすれば、その実現のためには、たとえ個人の市民法的レベルにおける正義を犠牲にするに等しい結果となろうとも、戦争被害に係る交戦当事国に対する損害賠償に関しては、個人が直接外国に対して請求し得る権利としては認められず、戦後の国家間における平和友好条約等の締結によって一括処理されるほかないというべきであり、少なくとも本件当時においても、現在においても、あらゆる戦争について、個人の戦争被害についてそのように処理されているのが実態であり、かつ、そのような処理がされていることには、国際法からしても、実質的な戦争回避という至上必須の要請からしても、現時点においてすらなお十分な合理性が認められると考え、少なくとも本件当時における本件加害行為に関する限り、結局原告らの右主張は採用することができないと判断するものである。

最後に、いうまでもないが、戦争や、平和や、歴史や、戦争被害についての賠償問題については、各人ごとの自由な見方が可能であり、もとより、当裁判所の前記のような見方が唯一真正な見方であるなどとは毛頭考えていないものであり、およそ一司法機関が右のような大きな主題につき判断したことが格別の意味を有することもあり得ないはずであると考えているものである。当裁判所としては、唯一、冒頭に述べたように、本件が、原告らの主張のとおり、極めて重要な国際的な法的責任を問うものであることからして、歴史や戦争などについて当裁判所がどのような見方をしているかを開示した上で判断しなければ、本裁判に答えたことにならないであろうと考え、かつ、本件のような深刻な問題についての今後のより妥当な解決を図るに際しての一素材を提示するほかないとの考えから(それが、たとえ全く役に立たないとしても、あるいは、有害無益と酷評されようとも)、当裁判所が限られた知見と能力の範囲で敢えて右について言及することとしたにすぎないものである。したがって、当裁判所は、以上に関わるいかなる歴史も、国家も、民族も、イデオロギーも、宗教も、歴史観も、何ら格別に非難する意図がないものであることと、一定の場合に戦争が許されるとか、勝敗やいかなる犠牲にもかかわらず戦争しなければならない場合があるなどという、ある種の戦争美化論に与する意図も全くないものであることを強調しておきたい。

五  以上のとおりであるから、ヘーグ陸職条約三条、国際慣習法、法例一一条一項を介しての本件当時の中華民国民法に基づき、本件加害行為について個人として直接我が国に対して損害賠償を求める原告らの請求は、その余の点について判断するまでもなく、いずれも結局認容することができないといわざるを得ない。

(裁判長裁判官伊藤剛 裁判官本多知成 裁判官林潤は転勤につき署名押印することができない。裁判長裁判官伊藤剛)

別紙第二 原告らの主張〈省略〉

自由と民主主義を守るため、ウクライナ軍に支援を!
©大判例